第8話 番外編 衣替え 前編

 6月に入り春の陽気の中から夏の暑さが顔を覗かせてきたある日の朝、藍は何度も自室にある鏡の前に立っていた。


「よし」


 もう何度目かわからない確認を済ませようやく準備が完了すると、それから後ろにある押し入れに向かって声をかける。


「もう大丈夫だよ。ごめんね、待たせちゃって」


 すると、すぐさま押し入れの中から声が返ってくる。優斗の声だ。


「そう?それじゃ、今から出て行くよ」


 そうして押し入れの扉が開かれる……事はなかった。その代わり、まるでそこから生えてきたように、扉をすり抜けて人間の腕が出てくる。もちろんそれだけでは終わらず、肩、頭、足、そして全身が姿を現した。シュールな光景であり、知らない人がこれを見たらさぞかし驚くだろう。だが藍にしてみれば毎朝見慣れた場面となっている。


 藍の部屋の押し入れに寝泊まりしている優斗の朝は、いつもこうして始まっていた。


「おはよう藍」

「おはようユウくん」


 挨拶をすると、優斗は藍の姿をまじまじと見つめる。

 いつも優斗は、藍が寝間着から制服に着替えた後に声をかけ、初めて押し入れから出てくる。

 寝起を見られるの恥ずかしいからと藍が頼んで、二つ返事で了承してくれた事だ。寝る前に見られる寝間着姿も少し恥ずかしいが、これ以上優斗に気を使わせてはいけないと思い黙っている。


 そんなわけで、優斗が押し入れから出てきた時、藍はいつも制服姿だ。だが今日はいつもとは少し違っていた。


「夏服か。もうそんな季節なんだな」


 優斗の言葉通り、今日の藍は昨日まで着ていた冬服とは違い、真新しい夏服に身を包んでいた。





 藍の通う学校では今日から二週間かけて、これまでの冬服から夏服へ移行する期間となっている。

 中には移行期間終了ギリギリまで冬服を使い続ける者もいるが藍はその逆で、初日の今日にはもう夏服に袖を通すとに決めていた。


 紺のブレザーとグレー一色のスカートからなる冬服とは違い、白のシャツに、グレーと白のチェック柄と言うスカートの組み合わせは見た目からして涼しげな印象を与え、体も一回り軽くなった気がする。


 藍は今年入学したばかりなので、夏服を来て学校に行くのはもちろんこれが初めて。そして、優斗にこの格好を見せるのも初めてだ。


「ど……どうかな?変なとこない?」


 若干声を上ずらせながら尋ねる。優斗なら似合ってないなんて言うとは思えないが、好きな人に初めて着る服を御披露目すると言うのは、やはりどうしても緊張してしまう。

 さっき優斗を呼ぶ前に、鏡の前で何度も確認していたのもそのためだ。


(リボンは曲がってないし、変なシワもよってなかったよね。二の腕だって……)


 実は少し前から、去年より太くなってはいないかと心配していた二の腕。だけど幸いな事に、パッと見た限り変化はなかった。


 じっと答えを待っていると、優斗は藍の姿をまじまじと見つめ、顔を綻ばせた。


「よく似合ってる。可愛いよ」


 可愛いよ――可愛いよ――可愛いよ――――


 その言葉が何度も頭の中でリピートされる。優斗に可愛いと言われるなんて今までにも何度もあったし、優しいからそう言ってくれるだけだとは思う。

 だけどそれでも、好きな人に可愛いなんて言われたら喜ばずにはいられない。


「あ、あり……がと……」


 ガチガチになりながら返事をする。だけどその時、優斗が気づいたように言った。


「髪、少し跳ねてるよ」

「えっ!」


 慌てて鏡を見ると、なるほど確かに一ヶ所変な方向にピョンと飛び出ていた。恐らくポニーテールに結んだ時にできたものだろう。


 さっき何度も確認したのに。そう思うが、よく考えてみれば見ていたのはほとんど制服の方で、髪のチェックはいつもよりも疎かだった気がする。


(うう~、せっかくの夏服の御披露目だったのに。可愛いって言ってもらえたのに)


 幸い、跳ねた髪は少してで鋤いただけですぐに直った。


 それを見て、優斗は改めてもう一度。


「うん。可愛い」

「~~~~~~」


 例え二度目でも、ついさっき恥ずかしい思いをしていても、可愛いと言われるとやっぱり喜ばずにはいられない藍だった。




          ◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆




 学校が近づくにつれ、同じように登校してくる生徒の数も次第に増えてくる。そんな中、藍は前方に見知った相手を見つけた。

 三島啓太だ。


「おはよう三島」

「よう、藤崎か。先輩も」

「ああ、おはよう」


 いつもと変わらぬ朝のやり取り。だがそれから啓太は藍の格好を見て目を止めた。


「今日から夏服か」

「うん。三島もだよね。似合ってるよ」

「そ、そうか?」


 藍に似合ってると言われ、啓太は少なからず動揺する。ただの挨拶だとは思いながら、そう言われたからには何か上手いこと返せないかと声を出す。


「ふ、藤崎だって、かわ……似合ってるぞ」


 一瞬可愛いと言おうとして、だけど結局言えなかった。似合ってると言うだけで啓太には精一杯だったのだ。


「ありがとう。もう夏服にしてる人って結構いるよね」


 周りを行き交う生徒達を見ると、まだ初日だと言うのに既に半数以上が夏服に変わっている。恐らくこの数日、季節を先取りした暑さが続いたからだろう。


「そうだな。先輩は冬服のままだけど」


 啓太の言う通り、優斗は今もなお冬服のままだ。と言うより、彼は幽霊になってから今までずっとこの格好だ。


「他に服がないから仕方ないだろ。まあ、これからの季節見た目はおかしくなるな」


 幽霊である優斗に、替えの服なんてものは存在しない。もし用意したとしても、すり抜けるのだから身につけるなんて不可能だ。

 今着ている服も厳密に言えば優斗の一部なのだそうで、ずっと着続けても汚れたり汗臭くなったりする事はない。幽霊になると暑い寒いと言った温度変化もあまり感じなくなるので、ずっとこの格好でも何も問題はなかった。

 確かに夏の暑い最中この格好でいられたら違和感があるだろうが、それはどうしようもないだろう。


 しかしそう思っていると啓太が言った。


「多分、他の服にする事できるぞ」

「えっ?」

「もしかして、今まで話した事無かったか?」


 啓太は当たり前のように言っているが、そんな話一度も聞いていない。

 驚く藍と優斗を見て、啓太は話し始めた。


「その服も本物の服じゃなくて、幽霊である先輩の一部だってのは前に話したよな」

「ああ。でないと俺が着ることはできないからな」


 もしこれが本物の服なら、他の物体と同じように優斗の体をすり抜けてしまう。もし仮に着ることができたとしても、そうすると今度は周りから服が宙に浮いているように見えるだろう。


「どんな服を着ているかは、幽霊本人のイメージによって決まるんだ。だから先輩が他の服を強くイメージしたら変えることができる。その靴だって、自由に出たり消したりできるだろ」

「そう言えばそうだな」


 優斗が今履いている靴は、学校の中では中履きに変わり、藍の家に入る時は消滅する。まるで手品のように、それらが瞬時に入れ替わるのだ。

 それなら確かに、服だって自由に変えることができるかもしれない。


「じゃあ、ユウくんも夏服になれるんだ。やってみてよ」

「よし。少し待ってろ」


 今のままでも問題ないかもしれないが、やっぱり季節に合った服の方が見ていてしっくりくる。何より純粋に優斗の夏服姿を見てみたかった。

 優斗も話を聞いて興味を持ったようで、それならと集中するそぶりを見せる。恐らくこれから着る夏服をイメージしているのだろう。


 藍達も、優斗の服が変わるのをじっと待つ――じっと待つ――じっと待つ――――


「なかなか変わらないね。本当にイメージするだけで大丈夫なの?」

「わかんねえ。俺も自分でやった訳じゃないからな」


 藍と啓太がそんな言葉を交わし、ダメかと言う雰囲気が漂い始める。だがその時、ようやく優斗の身に変化が起こった。それまで着ていた冬服が、みるみるうちに形を変えていく。

 そうしてそれまで見慣れていた冬服は完全に消え去り、優斗の制服は夏のそれへと変わっていた。


「凄いな。本当にイメージすれば変わるんだ」


 この変化に一番驚いているのは本人だろう。今いったいどんな感覚なのか、もちろんこんな体験なんてした事のない藍には予想もつかない。

 だがそれはさておき――――


「どこにもおかしなところはないよな?」


 自らの体を見回しながら確認する優斗。 藍も一緒になって見るが、啓太を始め他の男子生徒が着ている物と比べても違いはない。

 強いて言うなら、それを着ているのが優斗だと言う事だ。


(ユウくんの夏服。実際に見るのなんて6年ぶり)


 言い替えればそれは6年前には毎日のように見ていたと言う事。なのに眺めているうちに、いつの間にか目が離せなくなっていた。


 清潔感のある白いシャツは優斗のもつ爽やかなイメージにぴったりだし、露になった手首やそこから浮き出ている血管が目に入ってはドキッとする。

 今まで着ていた冬服も似合っていてカッコいいと思っていたが、夏服は夏服でそれとはまた違った魅力があった。


「似合う……すっごい似合うよ!」

「ありがとな」


 できればもう少しだけこのまま見ていたい。だけどそばでそのやり取りを見ていた啓太がそうさせてくれなかった。


「そろそろ学校行かないと遅れるぞ」

「あっ、そうだね」


 優斗の衣装替えやそれに見とれていて気づかなかったが、いつの間にか結構な時間がたっていた。あまりに時間を取りすぎたのが嫌だったのか、啓太はちょっぴり不機嫌そうだ。


 こうして藍達は、揃って学校へと向かって行った。

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