第2話 夏休みの軽音部 2
有馬優斗は幽霊だ。たった今藍の体をすり抜けたのも、肉体を持たない彼だからこそできることだった。
優斗はそのまま自分の身を藍の中へと潜り込ませ、やがて二人は完全に重なり合う。その瞬間、藍は体の自由を失った。
藍の目に見える景色も、耳に聞こえる音も、さっきまでと何も変わらない。だけど指一本だって自分の意思では動かせなくなる。
代わりにこの体の主導権を握ったのは優斗だ。幽霊である彼は、こうして人に取り憑くことで相手の体を操ることが出来た。
「じゃあ、少しの間身体を借りるよ。もしやめたいと思ったらいつでも言ってくれ」
「うん」
優斗が藍に取り憑くのはこれが初めてと言うわけでは無いが、彼は毎回この確認をしてくる。藍の意思を無視してまで取り憑こうとは思っておらず、何か不都合があればすぐに体から出て行くつもりだ。
藍の返事を聞いた優斗は、それからそばに置かれたベースを抱え上げる。このベース、今でこそ藍の所有物となっているが、元々これは優斗の物だった。優斗が亡くなった後、色々あって藍が譲り受けたのだ。
元の持ち主だけあって、優斗は慣れた手つきでベースを構え、そして何回か弦をはじいて音を確認した後、いよいよ本格的に奏で始めた。
優斗の演奏は藍のそれよりもずっと上手かった。本人は自分もまだまだで、すぐに追いつけるだろうと言っているが、それでも藍にとってはずっと遠くにいるように思えた。
「それで、練習ってのは何なんだ」
しばらく演奏を聞いた後、啓太が訪ねる。今のところ藍に取り憑いた優斗は演奏こそしているが、何か特別なことをしているようには見えなかった。
「ああ、それな」
優斗が答えようとするが、今の彼は藍に取り憑いているので傍目には藍が受け答えをしているようにしか見えない。それでいて口調は優斗のものなので、啓太にしてみれば少々違和感があった。
「藍は、これだけで練習になるって言ってるよ」
「これで?」
思わず聞き返す。自分より上手な人の演奏を聞くと言うのは確かに上達に繋がるかもしれない。だがそれだけでは、わざわざこうして披露するほどのものとは思えなかった。
「俺が弾くことで指の動きが直にわかるんだってさ」
「ああ、なるほど」
それを聞いて啓太もようやく納得する。優斗が取り憑いている間も、藍は目や耳といった五感で得られる情報はしっかり感じている。それは触感も例外では無く、優斗が弦を弾く度に藍の指にもその動きが伝わっていた。それはまるで自分自身が弾いているようにも感じられ、優斗が演奏を終えた後、その感覚を忘れないうちに練習してみたら、自然とそれまでよりも上手くできたと言う。
今回もまた、優斗が取り憑くのを止めると藍はすぐに同じ曲を弾き始める。
「特殊な練習法だな」
驚きながらも一部で納得する啓太。実際に自分の手に感覚が伝わってくるのだから、ある意味この上なく分かり易い手本なのかもしれない。
「三島もやってみる?」
藍が提案したが、啓太が答えるより先に優斗が言った。
「俺はギターは専門外だから手本にはならないぞ」
そして啓太も首を横に振る。
「手本になっても、俺はそんな練習はやらねえよ。取り憑かれるなんてごめんだ」
優斗が取り憑けるのは、おそらく藍限定と言うわけではないらしい。らしいというのは、他の人間では試した事が無いからだ。優斗は相手の体を奪うこの行為を進んでやろうとは思っておらず、啓太も自分の体を人に貸すなんて嫌だと言っていた。
「別に困る事じゃないのに」
ただ一人、藍だけが違っていた。彼女の場合取り憑かれることに躊躇いが無いどころか、さっきのように練習したいといったり、単に演奏を聞きたいといったり、果ては普段ものを食べられない優斗に食事をさせてやりたいなどと言った理由で、むしろ積極的に体を貸している。
「まったく、何でお前は平気なんだよ」
それは啓太から見ればおかしなことで、だけどその理由は分かっていた。相手が優斗だからだ。
もしこれが他の誰かだったら、おそらく藍も簡単に取り憑かれても良いなどとは思わなかっただろう。恋は盲目などと言うが、好きな相手のためなら何だってできるという例だ。
藍にとって優斗はお兄さんのような存在。そしてそれと同時に小学生の頃から続く初恋の相手でもあった。
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