別れのなみだ

詰めてみると着替え用の衣類はそれほどなく、充電器や電動カミソリを入れても、用意したキャリーバッグは余裕があった。


今日から二泊姉の家に泊まる。電車で姉の家の最寄りに着くと、改札口で甥を連れた姉の姿を見つけた。


「ちょっとコウスケ見といてくれる?」

合流するなり姉は甥のコウちゃんを置いて、駅の向かいにあるスーパーへ入って行く。残された僕とコウちゃんはその背中を黙って見ていた。


スーパーの入り口で二人、姉を待っていると

、コウちゃんは壁のポスターを指差して「T!」といきなり叫んだ。ポスターに印字されたアルファベットのTを見つけたのだ。覚えたてのアルファベットに興奮したのか、突然の甥の声量にびっくりしてしまった。「コウちゃんAもあるよ」とポスターのAを指してあげても、コウちゃんはTだけに異常に固執した。そのあとも、両手を広げてアルファベットのTを真似し始めたので、そうだねTだねと言うことしかできなかった。それでもまだTを連呼したのち、しばらく困惑した僕の反応を見ていたがやがて、そうじゃない、という顔をしてため息をついた。会うたびに成長している甥との距離感にいつも戸惑う。


「お待たせしました、どうしたの?」

姉が出てきて、コウちゃんは姉に寄る。

「何買ったん?」

「トイレしただけ」


姉は僕に「こっち」と方向を指差すと、さっさと歩き始めた。


姉はお義兄さんとコウちゃんとその妹のナツちゃんの四人家族で、昨年家を買って引っ越した。それまでのマンションでは手狭になり、探していたところに思い通りの家が見つかったらしい。



到着するとお義兄さんが、暑かったでしょと出迎えてくれた。その後ろには、ナツちゃんがいる。写真で見たことはあるけど、会うのは今日が初めてだった。


「ナッちゃん、知らない人きたよ。あいさつして」

陰に隠れているナツちゃんに代わり、お義兄さんが

「アダチナツです」と答えた。

「ナッちゃんなんさい?」と僕が聞いても「よんさいです」とお義兄さんが答えた。

照れていてなかなか全身を見せてくれない。コウちゃんよりも人見知りのようだ。


そこへなんの前触れもなく、後ろからコウちゃんが、「ナツ、T!」と近づくと、それに反応したナツちゃんも両手でTを表現して、とりつかれたように「T、T」言いながら奥の方へ消えていってしまった。


「あれなんなんですか?」

「あー、芸人さんだよ」

「芸人ですか。僕、あまりテレビ見ないんで」

「一日中やっててまいるよ」

大変ですね、子育て。お義兄さんの伸宏さんは自宅で仕事している。姉が外で働く間も家事や子供の世話をこなしている。


「まあ上がってよ。荷物は二階ね」


その日は夕飯を伸宏さんが作ってくれた。普段から料理していることがわかる手際の良さだった。

みんなでテレビを見て、子供たちは九時には布団に入った。


二日目、庭にプールを出して、コウちゃんとナツちゃんと遊んだ。子供の頃、僕も遊んだことがあるからわかるが、こんな水溜まりほどのプールが堪らなく楽しいのだ。コウちゃんは水鉄砲で遊び、ナツちゃんは仰向けに浮かんで耳まで浸かり、目と鼻と口だけ出しているのが楽しいらしい。

思いっきり遊んだ後、二人ともすぐに昼寝した。僕は姉の買ってきたスイカを食べた。


「もう明日、行くの?」

姉がスイカを手にとり、向かいの椅子に腰掛けた。

「行くよ、チケットもとってあるし」

種をティッシュに吐き出す。


「まあ若い時しかできないからね」

伸宏さんが僕を慮って言う。

「あなたは旅なんて興味ないでしょ」

「そんなことないよ」

じゃあ旅行連れてってよ。ここぞとばかりに姉が詰め寄ると、伸宏さんは失敗したと言わんばかりの顔で、食べたスイカにごちそうさまを言った。


その日の夜は鍋をした。コウちゃんは食欲旺盛で鶏肉が好きらしくそれだけを食べているので、僕はその他を中心に食べた。


食後に絵本を読んだ。本棚には何十冊とあるのに、ナツちゃんは『ノラネコぐんだん』ばかり読んでと持ってきた。


三日目の朝。


午前中に出発しないと夕方の便に間に合わない。まとめた荷物を玄関まで持って行く。

「日本に戻ったらまた連絡して」

姉が見送りに起きてくる。続いて子供二人もパジャマ姿で起きてきた。

「いつでも来てよ」

伸宏さんがおにぎりを渡してくれた。

「ありがとうございます」



「いいか、ナツ」

コウちゃんの耳打ちにナツちゃんが頷く。

すると

「T!!」


ナツちゃんがTで僕を通せんぼしてくる。

「うん、Tだね。それじゃまた遊びに来るね」

「ナツ諦めるな」


コウちゃんに言われたナツちゃんはなおも、

「T!!」の通せんぼをする。


「うん。面白いね。また元ネタ見とくから」

軽く交わそうにも、それでも健気に「T!!」を繰り返すナツちゃんから目を背けられず。


ついに観念した僕は最高の「T!!!」を繰り出す。「T!!!」で抗議し「T!!!」で会話した。そして、全力のTT三兄弟となって部屋を狭しと回旋する。統制された声は高く合わさり、隊員の目に迷いなどない。こんなにも、純粋な二つのTはいつまでも僕の心でTとTでTT兄弟となって。






  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る