空き家の問題

「あそこって、空き家だよね?」


買い物に行った帰りに前を通ると、塀に取り付けられていたはずの「売り家」の看板がいつの間にかなくなっていることに気が付いた。


「あそこ買い手がついたみたい」


母は知っていたようで、新しく転居してくる家族についても話し始めた。夫婦と、小学生くらいの子供が男女二人の四人家族らしいが、母は何か特別な家族のような言いようだった。


「変わった人たちよね。あんなとこ買うなんて」


母はみかんを食べながら、視線はテレビのワイドショー、意識は私の方を向いて喋っている。


「あんなとこ?わたしは結構好きだけど」


私たち家族は、兄が生まれた頃にここに越して来た。高台の上に、三十軒ほどの戸建てが建ち並ぶ住宅地だ。近所に幼馴染はいたが、みんな大学進学で出て行ったきり戻ってこないので、今はずいぶん静かになってしまった。


私は、子供の頃からあの空き家が気に入っていた。まだ小学校にも上がらない頃 、友達と外で鬼ごっこやかくれんぼをしてよく遊んでいた。今考えれば、そこは他人の敷地なのだけど、塀やフェンスを乗り越えて、建物の脇道や裏道を駆け回ったりしたものだ。

あの空き家にもよく近付いた。

その頃、すでにそれが無人の空き家だと子供の目にもわかった。洋レンガの二階建て。裏手の十分な広さのある庭では雑草が背丈まで伸びきっていた。窓から窺える室内の様子もどこか荒れていて、うら悲しい印象だった。そういえば、不思議なことに正面玄関の扉は鍵が掛かっておらず、開いたような気がするが、昔のことなので記憶違いかもしれない。


「あそこに住んでた人たち知らないでしょ?」

「なに?知らないけど」


母は勿体振っているのか言葉を探しているのか、妙な間を取って話した。


「夫婦二人暮らしだったけど、今で言うDVよ」


母はみかんの白いスジを念入りに取り除くタイプなので、食べる速度が遅い。手元にスーパーの広告を敷いて、その上でみかんの解体作業を行っている。


「…で、何かあったの?」

「何もないけど、一年も経たずに夫の不倫か何かで離婚した」


母はそう言ってから、「って噂」と付け加えた。すると、意識まで完全にワイドショーに向いてしまったので、私もぼんやりとテレビ画面を眺めた。

連日の『夫殺し?疑惑の妻』をテーマに司会者とコメンテーターが個人の見解を披露している。私は昔見たあの空き家の光景を思い出していた。荒れた室内。カーテンレールにはレースだけが残っていたような。ソファも残っていたっけ。一年そこらで離婚して出たにしては、ひどく傷んでいたような。記憶は曖昧で、思い出す景色はほとんど私が勝手に作り上げたものかもしれない。母の話を聞いたことで、さらに妙な脚色が加わってしまい、ついにどうして気に入っていたのかまで分からなくなってしまった。

CMに入ったのを見て、私はトイレに、母は広告を丸めて夕飯の支度に立ち上がった。



その家族を見たのは、土曜の午後だった。

母は料理はするが、食材の買い出しは私の役割になっている。自転車で坂道を下ってちょっと行った角にある、小さなスーパーでいつも食材を買っている。急勾配な坂道は、自転車で下ると命の危険を感じるほどで、六十を過ぎた母には任せられないと私が買って出た。


両手でブレーキを握り、スピードを抑えつつ坂道を下っていると、前から白いワゴンが上って来てすれ違った。ファミリー向けの、見ない車だった。坂の上は通り抜けが出来ないため、そこに住んでいるもの以外上る車はあまり見ない。もしかしてと私は思った。


スーパーから戻り、買った牛乳や卵や肉を冷蔵庫に入れる。今日はカレーだ。土曜はカレーになることが多い。それは翌朝、家族が各々、勝手に温めて食べられるため、要するに母のためである。その母はまた、居間でみかんを食べていた。私は、あの空き家に向かった。


向かったはいいが、私には近付く用が何もないことに気付き、空き家の前を一旦通り過ぎ、振り替えってもう一度来た道を戻る。さっきよりもゆっくりと様子を窺いながら歩いて行く。坂道で見かけた白いワゴンが駐車場に駐められていた。ワゴンの後ろが開けられ、荷物を家に運び込んでいるようだ。中から子供の声が聞こえてくる。


開け放している正面扉から出てきた、作業服姿の奥さんらしき女に気付かれ、軽く会釈をされた。私は咄嗟に「この家、いいですよね?」と言った。

すると、女に笑顔が点った。

「そうなんです。わたしも一目で気に入ってしまって」

女の能天気にも見える顔を見ていると、頭の中に顔も知らないはずの元住人が思い浮かんだが、私がわざわざそれを伝える義理や理由は何もない。女は「足立」と名乗り、短く挨拶を交わすと、作業に戻って行った。

私は空き家ではなくなったその家を後にした。


母から聞いた噂の元住人たちの、薄暗かったであろう生活が脳裏でくるくると回り出す。湧いてくるもやもやとした行き場のない感情は、疑惑のDV浮気男へと向かう。暴力を振い、他に女を作って家庭を壊した最低な男。ただそれも噂で、本当のところは何も分からないのだけど。

そんなこととは関係なく、あの家族はあそこで幸せに過ごすのだろう。家もようやく報われるということだ。

そういうものなのだろう。


私があの家について知っているのは裏庭が広いことくらいだ。

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