第23話
恐怖で足がすくんでしまう。何か言い争っているようだ。どちらの口調も激しさを増していく。なぜだ。なぜ小百合さんは逃げないんだ。焦りと苛立ちを感じるが、体を動かすことができない。男が小百合さんにつかみかかる。その瞬間に、自分の中で眠っている恐怖心をねじ伏せ、道路に飛び出す。何台もの車がクラクションを鳴らして通過していく。男はクラクションの音にひるんだのか、一瞬動きを止めてこちらを見た。間髪入れずに男の足にタックルを仕掛ける。男はバランスを崩し、歩道の上に倒れた。男の手が小百合さんから離れるのが見えた。
「小百合さん!逃げて!」
「い、伊佐美?!」
「いいから早く!」
男に何度も頭を蹴られながら、それでも男の足にしがみついて小百合さんに向かって叫ぶ。しかし、小百合さんは頭を抱えて地面にへたり込んでしまった。「何をしてるんだ!早く逃げろ!」と言おうとして顔を上げたところに男の蹴りが顎に入った。激しく脳が揺さぶられ、思わず手を放してしまう。視界がぐらぐらと揺れる中、髪をつかまれて欄干のそばまで引きずられる。こいつ、僕を川に落とすつもりだ。河の水面まで10mはあるだろう。意識が朦朧としている状況で落ちて助かるような高さではない。男がぐったりとした僕の体を欄干の上にのせる。暗い水面が僕を待ち受ける。もう抵抗することもままならない。それでも最後の力を振り絞った。体が落ちる瞬間、男の両腕をつかんだ。もう抵抗しないと思っていたのだろう。不意を突かれた男は、僕の体と一緒に橋から落下していった。水面にたたきつけられると同時に今度こそ完全に意識を失った。
意識が覚醒したのは水の中だった。頭の痛みが嘘のように消えていた。酸素を求めて光の見える水面に向けて必死で水を掻く。水面に顔を出して初めに聞こえたのは、たたきつけるような雨の音と、その音に混じったサイレンの音だった。サイレンの鳴る方角に顔を向けると、一つ向こうにある橋の上におびただしい数の赤色光が点滅していた。とりあえず川から上がるために岸へ向けて泳ぐ。そして、川岸にたどり着いて初めて気が付いた。ここは落ちた橋よりも上流だと。状況が全く理解できなかった。普通なら下流に流されてしまうはずだ。なのになぜ…頭を抱えてもう一つ気が付く。髪が短くなっているのだ。もしやと思い体を見てみる。胸がなくなっている。手がごつごつしたものになっている。長い間ご無沙汰だった男の体に戻っていた。
クロユリ 下野一 @shimotsuke_san
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