崩壊
第1話 仕事
彼はさっきの絵本片手に、薄暗い部屋に立っていた。窓辺の椅子に、一人の女性が座っている。優美なドレスを着た、若く美しい女性。窓から差し込む青白い光を浴びながら、本を読んでいる。いや、読んでいるというよりは、本に視線を落としたまま、かたまっている。今の彼女はページをめくることもなければ、呼吸をすることもない。この世界では、時間が止まっているからだ。
そんな彼女に、男は音もなく近づく。男がその肩にそっと触れると、世界が一瞬揺らいだ。
女がぱちっと瞬きをする。そしてようやく、彼女は目の前にいる男に目を止めた。その口から発せられる、甲高い悲鳴。男は細い眉をしかめた。一日に何度も別の物語で時を動かしては悲鳴を上げられる。慣れてはいるがやはり不快だ。何十年も時を止められていたくせに、よくまあ発声練習なしでこんな大声が出せるものだと、毎度思う。
「こんばんは、ライラ女王。」
低い声でそう言うと、彼女の体がビクッと震えた。
「なぜ私の名前を…? それにあなたは誰?」
「そんなことどうだっていいだろ。」
ぶっきらぼうな返事。ライラは本を抱きしめて椅子から立ち上がり、後ずさりする。
「怖いわ…。出て行って。」
「そんなひでぇこと言うなよ。俺が来なかったら、お前ずっとそこで石像だったんだからな。」
ライラがはっと息を呑む。なにやら考え込むように、頬に手を当てた。
「…やっぱり、私たちの物語は止まっていたのね。なんとなく、そんな気がしたわ。」
「自分が物語の登場人物だと分かっているとは、賢明な女王様だ。説明の手間が省ける。」
物語の世界の住人たちは、自分が作者によって作られた、お話の中の存在にすぎないと自覚している者と、自分の生きる世界が全てで、自分の意思で未来を切り開いているのだと思い込んでいる者の、2通りに分かれている。その分かれ方に法則性はなく、屋敷でも調査班が調査をしているが、結論は出ていない。しかしこの男はただ単に、本人の勘によるのではないかと考えている。
「あなたが物語をまた動かしてくれたのでしょう? 感謝するわ。もしあなたが来なかったらと考えると、恐ろしいわね。」
無断でいきなり現れた見ず知らずの男に感謝するとは、お人好しな女王様だ。男は内心バカにするが、口に出して機嫌を損ねられたら困るので、言わないでおく。
「いや、動いてんのはこの部屋の中だけだ。女王様とお話しがしたかったからな。」
「お話?」
「そ。」
男が唇の端を吊り上げて、こう続けた。
「お前の娘さん、一昨日死んだらしいじゃねぇか。それもまだ3歳で。」
「…!」
ライラの表情がこわばる。それでもひるんだ様子は見せず、しっかりとした声で、
「えぇ、そうよ。あの子は魔女の呪いで死んでしまったわ。それがどうかしたの? 悲しんでいる私を笑いに来たの?」
徐々に語尾を荒らげ、男に詰め寄るライラ。そんな彼女を、男は手をひらひらさせて制する。
「落ち着けよ女王様、そんなんじゃない。俺は願いを叶えに来た。お前の願いは、娘さんを蘇らせること。そして幸せな人生を歩んでもらうこと。 違うか?」
「そうよ。」
即答してから、ライラは目を見開く。
「まさか、できるの?」
「できるぜ。俺を誰だと思ってんだ?」
「知らないわ。あなた、名前を教えてくれなかったじゃない。」
それもそうだと、男は気づく。しかしすぐに気を取り直して、咳払いをした。
「とにかく、俺にはできる。俺にそれぐらいの力があることは、長い間止まっていた時を、この空間だけだが動かしたことが証明してくれる。」
「…本当に、できるのね?」
念を押すように、彼女がゆっくりと尋ねる。「ああ。」と男は頷いてみせたが、その後に「ただし。」とつけ加えた。
「人の命は、そんな簡単に蘇らせることはできない。だから、報酬をいただく。」
「報酬って?」
「お前の命だ。」
「…!」
ライラの体が硬直する。まるで、再び時が止まったかのように。
男は色素の薄い唇を、血でも吸ったかのような真っ赤な舌で、ペロリと舐めた。登場時とは違い、その表情は生き生きとしている。まるで、この状況を楽しんでいるかのように。
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