第44話 スイッチが押されるとき

「え?」


 世界の崩壊の音も、もうサターンの耳には届かなかった。ルトロスの言葉だけが反響して、何も聞こえない。


「ルトロス……!」


 フェルシが泣きながらルトロスの名前を呼んだ。そのまま崩れ落ちるフェルシの体を、ルトロスは優しく支える。


「フェルシ、お前が提案したことだぞ? そんな泣きそうな顔をするなよ。たくさんの犠牲のおかげでここまで来たんだ。今更、自分の命を惜しんで世界を崩壊させたりはしない。お前たちの愛した世界は、守り抜かなければ」

「でも、でも!」


 サターンが必死に叫んだ。ルトロスに飛びついて、その胸を両手でぽかぽか叩く。


「ルトロスが死ななくても、世界を守れる方法はあるかもしれないよ!? 僕、全力で探す! だから、ねえ、一緒に探そう? お願い、お願いだよ……!」


 涙がボロボロ溢れてきて、もうルトロスの顔もよく見えない。そんなサターンの涙を拭って、ルトロスは優しく微笑んだまま首を振った。


「確かに、あるかもしれない。でも、それを探している時間はもうないんだ。空の割れ目を見ただろう。あれはすぐに太陽の光を飲み込んで、世界を崩壊させてしまう。今すぐに、止めなくては」


 彼の言うことはよくわかる。二人の過去を見たのだから、もう世界の崩壊が目前に迫っていることなどサターンにだって理解できた。でも、ルトロスとフェルシが犠牲にならないで済む選択肢があると本気で信じていたから。簡単に受け入れることも、諦めることも、できなかった。


「嫌だ、嫌だよ! ルトロスを殺したら、フェルシもいなくなっちゃうんでしょ!? 二人とも僕を置いていなくなるなんて絶対に嫌だ!」

「あはは、さっきは大人になったと思ったが、やっぱりまだまだ子供だな」


 駄々っ子のように嫌だと繰り返すサターンに、ルトロスは声を上げて笑う。その声を聞いて、フェルシもサターンもわかってしまった。もう、ルトロスにはひとかけらのためらいも心残りもないのだ、と。子供のように無邪気で、青空のように晴れやかで、誰よりも幸せそうに、ルトロスは笑っていたから。


「嫌だよ……! ねえ、フェルシも嫌でしょ? せっかく初めての彼女ができたのに、さよならも言わないでいいの?」


 ルトロスを説得することはできないと気づいて、サターンはフェルシにすがりつく。けれど、止まらない涙を必死にぬぐいながら、それでもフェルシはサターンに笑ってみせた。


「アンジェラはきっと分かってくれる。俺の背中を押してくれたのは彼女だから。俺たちのせいでこの世界は崩壊しかけてる。だから、俺たちが責任取らなきゃならねーんだ。許してくれな、サターン」


 そんなフェルシの言葉に、サターンは必死に首を振る。


「嫌だ、二人がいなくなっちゃったら、僕はどうすればいいの? どうやって生きていけばいいの? 二人のいない世界でなんて、生きていけやしないよ……!」


 フェルシが苦しそうに顔を歪めた。サターンの悲痛な叫びは、かつてルトロスを殺せなかったあの日の自分と同じ思いがこもっていたから。けれど、あの日のフェルシとサターンは違っていた。フェルシを愛した人はルトロスだけだったけれど、サターンを愛しているのは二人だけではない。


「大丈夫だよ、サターン。俺たちがいる。俺と、ロベリアが」


 力強い声が、サターンの耳に届く。振り向けば、そこには輝くような笑顔を浮かべたリリーとロベリアが立っていた。


「お前は一人じゃない。二人が守ってくれた世界、俺たちと一緒に守っていこう。今度は人間も魔族もホムンクルスもみんな一緒に暮らせる、そういう世界にしていこうよ。俺たちならきっと、できるはずさ」

「ええ。ゴスラーの町に帰れば、あなたの帰りを待っている町の人々だってたくさんいるわ。二人が私たちに託そうとしてくれている未来を、信じてみて」


 その言葉は、サターンの心を明るく照らす。彼の心の中で闇に包まれようとしていた未来が、再び輝こうとしていた。


 メキメキメキッ! バリーンッ!


 何かが折れるような轟音が響く。ガラスが割れるような音と共に、空の割れ目はさらに広がっていた。


「お前を一人遺していくことになって、すまない。だが、お前は俺とフェルシにとって希望そのもの、未来そのものだ。お前がいてくれるなら、俺たちは終わりじゃない。お前が俺たちのことを思い続けてくれる限り、俺たちの未来は続いていくんだよ。それは、とても素敵なことだと思わないか?」


 どんどん進む世界の崩壊と、晴れやかに笑うルトロスの言葉。もう、サターンは嫌だと首を振ることが出来なかった。


「それはとっても、素敵なことだと思う……! 分かったよ、ルトロス。スイッチを押そう。世界を、救おう」


 その言葉を聞いた瞬間、フェルシが思いっきり抱きついてくる。


「ありがとう、サターン。俺たちの願いを、聞いてくれて」

「もう、最後だからってうっとうしいよ! フェルシらしくもない!」

「だってさ、だって……!」

「もーう、顔どろどろじゃん!」

「ふふ、あはははは!」

「ちょっとルトロス、笑ってないでフェルシはがすの手伝ってよ!」

「はがすって、お前ひど!」


 世界崩壊までもう時間がないというのにじゃれ合い始めた三人を、止めるものは誰もいなかった。ロベリアもリリーも、穏やかな笑顔で彼らの姿を見つめている。


 そのとき、突如強い風が吹いた。その風は桜の花びらを舞い上がらせる。そしてその花びらを連れた風は、三人をなぐさめるかのように彼らの周りをくるくると回った。その美しさに、彼らはじゃれ合うのをやめて見惚れる。すると、花びらは地面に置き去りにされていたフェルシの禍々しいオーラを放つ勇者の剣を包み込んでしまった。驚くことに、花びらに包まれた剣が再び現れた時、それはもう禍々しい黒と赤に染められてはいなかったのだ。


 金色の柄は輝き、鍔の真ん中には桃色の宝石がきらめく。それはまさしく、世界を守る聖なる剣そのもの。勇者の剣は、《禁忌》の力に染められる前の本来の姿を取り戻したのだ。


「え……」

「なんで?」


 フェルシとサターンはきょとんとして目をぱちくりさせる。そのとき、二人と同じように驚いていたルトロスの周りを、再び桜の花びらが取り囲んだ。ルトロスは他の誰にも聞こえていない誰かの声を聞いているかのように一人頷いている。


「そうか。そうだったのか」

「ルトロス?」


 怪訝な顔のサターンに、ルトロスは笑ってなんでもない、と首を振った。


「サターン、最後にもう一つ頼みごとをしてもいいか?」

「なあに?」

「一つだけ後悔していることがある。ホムンクルスたちのことだ。俺は、人間が神を気取って彼らを創り上げたことが許せなかった。彼らを創り上げた人間たちを断罪し、ホムンクルスたちも世界を救うために利用してしまったが……。本来、ホムンクルスたちに罪はない。この世界に生み出された以上、彼らにも彼らの望むように生きる権利はあるはずだった。それを否定してしまったことを、とても悔いている。どうか、彼らがこの先この世界で生きていけるように、力を貸してやってくれないか」


 その言葉に、サターンは力強く頷く。


「もちろん! さっきリリーも、ホムンクルスも人間も魔族もみんな一緒に生きていく世界を創るって言ってたでしょう? そんな世界になるよう頑張るから、ルトロスは安心して!」

「……ありがとう、サターン」


 そんな二人を見て、フェルシはゆっくりと勇者の剣を手に取った。最後にもう一度、眠り続けるアンジェラの頰にキスをして。そして、ルトロスの正面に立つ。


「まさか、もう一度あんたにこの剣を向ける日が来るなんて。想像もしてなかったけど、あの日とは全然違う気持ちだよ」


 そう言いながらも、その手はやはり震えていた。


「あー、どうしよう。頭ではわかってんだけどな……。やっぱ、ちょっと怖い」


 そんなフェルシを見て、サターンはぎゅっと拳を握りしめる。そして、ゆっくりと震えるフェルシの手に自分の手を重ねた。そして、ルトロスへと剣を向けさせる。


「サターン……?」


 驚くフェルシに、サターンは精一杯笑ってみせた。その瞳には涙が輝いていたけれど。


「フェルシとルトロスのことは、僕が最後まで見送ってあげなくちゃいけないでしょ? フェルシは最後まで頼りないし。だから……!」

「……わかったよ。サターン、一緒に、世界を救おう」


 二人で一緒に、勇者の剣を握りしめる。その姿を見て、ルトロスは嬉しそうに笑っていた。


「ルトロス、フェルシ、ありがとう。ずっと、愛しているよ」


 サターンのその言葉に、二人が笑って頷いて。


 そして、剣は振り下ろされた。

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