第42話 生まれてきた意味

 空は灰色の雲に覆われている。薄暗い池の辺りで、ルトロスの紫色の羽根が妖しい輝きを放っていた。フェルシの勇者の剣は、禁忌の色に覆われ禍々しいオーラを放っている。世界の終末が近づいていることを、その場の誰もが感じていた。


「このまま放っておけば、この世界は無残に崩壊する。その崩壊を避けるためには、スイッチを押すしかない。だが、スイッチを押さなければ存続できない欠陥品の世界を創り続ける愚かな神を殺さなければ、結局はどこかの世界でこの悲劇は繰り返され続けるんだ。世界崩壊の過程で多くの人が犠牲になり、最後に魔王が犠牲となって世界は正常に戻る。犠牲の上に成り立つような、こんな世界の仕組みは破壊しなければ」


 かつて無念を抱いて死んでいった全ての魂に思いを馳せながら、ルトロスが静かに告げる。


「俺も、そう思ってた。こんな世界はおかしいって。だから変えなきゃ、って思ってた。これ以上の犠牲を出さないために。でも、もし俺とルトロスがあのときちゃんとスイッチを押していたら、あの世界は崩壊しなかったし、この世界に来るまでの間に崩壊させた世界だって今でも平和だったのかもしれない。俺たちは未来の犠牲を減らすために、今生きる人たちを犠牲にしてる。俺たちがやってきたことは、結局愚かな神と同じだ。犠牲になる命を選んで、守りたい命だけ守ろうとしてる。命の価値は、決して比べるものなどではないのに」


 闇に染まった勇者の剣を抱きながら、眠り続けるアンジェラの頭を優しく撫でて、フェルシは反論した。サターンはどちらの言葉にも真剣に耳を傾けながら、どちらに賛同することもせず考え込む。


「ルトロスはどうしたいの?」


 サターンの問いかけに、ルトロスは答えた。その口調は穏やかで、優しくて、いつも通りのルトロスそのもので。無条件に頷いてしまいそうになる。


「この世界の崩壊の間際、必ず神は現れる。そのたった一度のチャンスを逃さず、神を殺すんだ。神を殺すことに成功しても、この世界はもはや手遅れの状態になっているだろう。サターン、お前は心配しなくていい。俺たちがお前を守る。神を殺した後の世界で、神に成り代わった俺たちと共に生きていこう。三人なら、きっと大丈夫。愚かな神と同じ過ちなんて、犯さないさ」


 きっと大丈夫。そう言って微笑んだルトロスを、サターンは信じたいと思った。神に成り代わったとき、自分たちがどうなるのか、サターンには全く想像もできない。今とは全く違う生き方になるのだろうことだけは容易に想像できた。きっと、神はおいかけっこをしたりはしないだろう。それに、もう一つ気がかりなことがある。


「ルトロスを信じたいよ。三人なら、きっとどこにいたって、何になったって大丈夫だって、僕も思える。でも、この世界の人たちみんなを犠牲にするなんて、そう簡単には決断できないよ。未来の人たちのことを考えたら、犠牲は少ないのかもしれない。でも、この世界の人たちの中には、大好きな人たちがいる。ここまで一緒に来てくれたリリー、追いかけてきてくれたロベリア、僕を可愛がって育ててくれたゴスラーの町のみんな、教皇様。他にも、たくさんの人に出会ったね。その人たちみんなを見捨てることが本当に正しいの?」


 サターンの問いかけに、ルトロスは悲しそうに眉をひそめる。そらされた視線が、彼自身も迷っていることを物語っていた。その様子を見て、サターンはフェルシの方を向く。


「じゃあ、フェルシはどうしたい?」


  彼はしばし迷っているかのように沈黙していたが、やがて握りしめていた勇者の剣を地面にゆっくりと置いた。眠るアンジェラを愛おしげに見つめながら、その頰にキスをする。そして、桃色の瞳でサターンをまっすぐに見つめた。


「俺は、もう誰も犠牲にしたくない。この世界で出会った人たちの未来を奪いたくない。神を殺さないことで、昔の俺とルトロスのような痛みを味わう人たちは現れ続けるのかもしれないけれど。それでも、目の前にいる人たちを犠牲にはできない。だから、この世界の崩壊を……止める」


 その言葉を聞いて、ルトロスは苦しそうに顔を歪ませる。サターンは、静かにフェルシに問いかけた。


「どうやって?」


 その問いに答えようとフェルシは口を開いて、そして何も言えないまま俯く。ルトロスとフェルシの様子を見て、サターンにはその答えがわかってしまった。


「押すんだね。を」


 ルトロスもフェルシも、ただ黙って俯くばかり。サターンの言葉に、リリーが口を開く。


「本当なら、この世界のスイッチはロベリアと俺のはずだった、んだよな? 俺がロベリアを殺さなければ、この世界は崩壊するはずだった」


 そう言って、リリーはフェルシが置いた勇者の剣に手を伸ばした。彼がその剣を取ろうとした瞬間、バチッと爆ぜるような音がして、リリーは剣に弾かれる。


「でも、もう俺は勇者じゃない。ロベリアも、魔王じゃない。その役目は、あんたたちに取って代わられてしまったから。それなら、この世界の崩壊を止めるスイッチは……」


 リリーは彼からその役目を奪い取った勇者の肩に優しく手をのせる。ロベリアも口を結んで拳を震わせるルトロスの手を、優しく握って気遣うような表情を浮かべた。


「……みんなの思っている通りだよ。この世界の崩壊を止める方法は、結局のところ一つしかない。勇者が、この剣で、魔王を殺す。スイッチを、押すんだ。それだけが、この世界を救う方法だよ」


 絞り出すように、彼は告げる。その瞳は涙に濡れていた。


「……フェルシは、ルトロスを、殺せるの?」


 サターンは震える声で問いかける。本当は怒りたかった。フェルシの口から、そんな言葉を聞きたくはなかった。けれど、彼がどれだけ苦しんでその答えを出したのか、サターンには痛いほどに伝わってきたから。ただ、そう尋ねることしかできなかった。


「あのときとは一つ、違うことがあるんだ。あのときは、ルトロスを失った未来で生きていく理由もなかったし、生きていく方法もわからなかった。今は違う。俺は、。ルトロスの魔法で生かされていたから、ルトロスを殺せば俺も死ぬんだよ。だから、一人じゃない。最期まで一緒だ」


 潤んだ瞳で傍らのリリーを安心させるように微笑むと、フェルシはルトロスの側に歩み寄る。ルトロスの手を握っていたロベリアが、その手を離してフェルシに向き直った。


「あなたは、本当にそれでいいの?」


 ロベリアの紫色の瞳が、フェルシを見つめる。彼女は今、自分の意思とは関係のないところで勝手に自分たちの運命を決められようとしているのだ。本当ならきっと怒りたいだろうし、泣きたいだろうし、実際彼女にはその権利がある。けれど、彼女は三人の選択を妨げないように、毅然とした態度で審判のときを待っていた。


「……お前がそういうやつだから、見捨てられねーんだよ。全く、いい女になりやがって」

「あら、彼女に怒られるわよ?」

「アンジェラもきっとそう言うさ。お前はいい女だって」


 フェルシはいたずらな笑みを浮かべる。それが強がりの表情だということは、誰が見たって明らかだったけれど。ロベリアも笑った。それはきっと、涙をこらえるための笑顔だったのだろう。

 

「ルトロス。俺と一緒に行こう。ずっと、二人で歩いてきたんだ。俺たちの道の終わりは、俺たちで決めなくちゃ」


 フェルシは俯いたままのルトロスに手を差し伸べる。けれど、ルトロスはその手に目もくれない。


「どうしてだ、フェルシ。俺たちがずっと願ってきたことが、やっと叶うというのに! 結局お前が俺を殺すことが正しかったと言うのなら、俺たちが歩んできた道は全て過ちだったのか。全ては、無駄だったのか!?」


 その叫びはあまりに悲痛で、思わず誰もが彼に心を動かされてしまいそうになる。けれど、簡単に流されるわけにはいかなかった。二人を愛しているからこそ、サターンは簡単に答えを出したくなかった。絶対に後悔しないように、誰にとっても一番良い選択肢を見つけたかった。


「サターン、お前はどう思うんだ。俺とフェルシの出した答えを聞いて、お前はどう思ったんだ? 聞かせてくれ、サターン。俺にはもう分からないんだ。俺たちは一体どうすればいいんだ? どうするのが正義なんだ? 俺はみんなを傷つけたいわけじゃない。出来るだけ多くの人を救いたいだけなんだ。それなのに、どちらの道を選んでもたくさんの犠牲が出る。どちらの選択肢も、正しいとは思えないんだ。教えてくれ、サターン。俺たちは一体、どうすればいい?」


 サターンは、ルトロスが分からないと言うのを見るのは初めてだった。いつだって、ルトロスは自分よりよっぽどたくさんのことを知っていて、たくさんのことを教えてくれて。側にいてくれて、守ってくれて、愛してくれたのは、いつだってルトロスだ。けれど、今彼は苦しんで、傷ついて、自分に教えて欲しいと叫んでいる。助けて欲しいと泣いている。


 そんなルトロスの姿を見て、フェルシもボロボロ涙をこぼしていた。いつも適当で乱雑で気ままだけど、いつだってサターンを見ていてくれたフェルシ。決して素直じゃなかったけれど、どんなときもサターンに優しくしてくれようとしていたことを、サターンはよく知っている。そんなフェルシが、まるで幼い子供のように泣きじゃくっていた。


「ああ、きっと、そうだったんだね」


 サターンは誰にも聞こえないくらい小さな声で呟く。誰よりも愛する二人が、どこにも見えない光を探して苦しんでいる姿を見て、彼は自分が生まれてきた意味を知った。


「僕はきっと、二人を守るために生まれてきたんだ」


 誰にも守られなかった二人。自分たちを、そして世界を守るために、いつもボロボロになっていた二人。孤独で、世界に愛されなかった二人。そんな二人を守るために、今自分はここにいる。二人を守り、愛して、二人の見失った光を、取り戻してあげるために。


「ルトロス」


 サターンは、うずくまるルトロスの手を無理やり引っ張る。


「フェルシ」


 ボロボロ泣くフェルシの手も、しっかりと握りしめて。


 自分よりずっと大人のはずなのに、まるで子供のような愛しい二人を見て、サターンは幸せそうに微笑んだ。ぎゅっと二人を引き寄せて、力一杯抱きしめる。


「今まで、よく頑張ったね。みんなを守るために頑張ってくれて、ありがとう」


 淀んだ世界に、桜の花を揺らしながら、一筋の清風が吹き込んだ。

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