第40話 なかったはずの選択肢

 ルトロスがサターンを迎えに来る、少し前のこと。


 フェルシは、どうしてもホムンクルスたちをその街に攻め込ませることが出来なかった。はやくこの街も断罪して、聖都へサターンを迎えに行って、神を殺さなければならないのに。分かっているのに、どうしても出来なかったのだ。彼は軍勢を街の外に待機させて、一人ルクスリアの街に入る。他の村や町で起きたことが既に知れ渡っているらしく、あんなに喧騒に満ちていた街は嘘のように静かだった。


 フェルシは迷うこともなく、ある場所に向かってひたすら歩き続ける。以前この街を訪れた日、彼女とともに歩いた道を。なぜか、フェルシは彼女がそこにいると確信していた。


 街の外れにある、静かな池のほとり。薄桃色の花を付けた桜の木が、あの日と変わらぬ美しさで花びらをひらひら落としている。その木の下に、彼女は静かに佇んでいた。


「待っていたわ。あなたが来るのを、ずっと」

「……アンジェラ」


 薄桃色の髪は、編まれることなくおろされている。その髪が風に揺れる様は、桜の花びらが散るのに似ていた。


「弟は?」

「心配しないで。お店の人たちが連れて行ってくれたから」

「なんでここにいるんだ。ここにいれば死ぬとは思わなかったのか」

「思わなかったわ。だって、きっとあなたは会いに来てくれると信じていたから。あなたもここに来たということは、私が待っていると分かっていたということでしょう」


 その言葉に、フェルシは困った顔をする。ゆっくりと彼女に近づき、その頰に優しく触れた。


「あんたに、聞きたかったんだ。あの夜、あんたは言ってた。最高の終わりを迎えたい、世界を終わらせてくれって。今でも、そう思ってる?」


 その頰を撫でるフェルシの手に自分の手を重ねて、アンジェラは微笑む。その瞳には、涙が浮かんでいた。


「ええ、思っているわ。あなたが終わらせてくれるのなら、それは最高の終わりに違いない。それはとても幸せなことだわ」


 でも、と彼女は目を伏せる。


「本当はね。私、もっと生きたかったわ。弟と二人で、幸せになりたかった。娼婦なんて仕事をしなくても、もしかしたら弟と生きていける道はあったのかもしれない。あなたと会って、そんなことを考えるようになったわ。私はただ、娼婦になることが一番簡単だったからそうしただけなんじゃないかって。諦めないで探し続けていれば、別の道はあったのかもしれない。それなのに、私はあったかもしれない選択肢を探すことさえしなかった」


 その言葉に、フェルシは目を見開いた。桜と同じ、桃色の瞳が揺れる。それを見て、アンジェラはフェルシの首に手を回してその顔を上目遣いに見つめた。


「あなたは、ちゃんと探した? 私のように、後悔していない? 今ならまだ間に合う。迷っているなら、最後まで探してみるべきよ。別の選択肢を。もう一つの、未来を」


 フェルシは彼女の瞳からこぼれ落ちる涙をそっと拭う。そのまま、ゆっくりと彼女の唇にキスをした。桜の花びらが二人を包み込み、しばし世界から二人の姿を隠していた。



※※※



 フェルシの断罪が終わるのを待っていたルトロスは、とうとう待ち焦がれてルクスリアに降り立った。


「フェルシ」


 ルトロスの声に、怒りの色を感じてフェルシは震える。ルトロスの本気の怒りには、一生慣れることがないだろう。けれど、今だけは彼のいいなりになるわけにはいかなかった。


「できない」

「どうしてだ!? なんのためにここまで歩いてきたのか、お前は忘れたのか!?」

「忘れるわけないだろ!? でも、どうしてもできないんだ」


 きっぱりと告げるフェルシは、安らかな寝息を立てるアンジェラの体を優しく抱きかかえている。ルトロスは憎しみに満ちた目で彼女を睨みつけた。


「その女は、終わらせてくれと言ったのではなかったのか」

「そう言ってた。あなたが世界を終わらせてね、と」

「それならなぜ」

「俺たちはずっと、選択肢なんかないと思ってた」


 フェルシの言葉に、怒りを露わにしていたルトロスが戸惑いを見せた。その覇気が弱まったのに気づいて、フェルシは訴える。


「でも、そうじゃなかったのかもしれない。俺たちは他の選択肢なんて想像しなかったから、見つかるはずもなかった。彼女が言っていたんだ。最後まで探してみるべきだって。別の選択肢、もう一つの未来を」


 その気迫に、ルトロスは黙り込んだ。反論したくても、フェルシがそれを許さない。


「生きたかったって彼女は言ってた。本当は弟と二人で幸せになりたかったって。その願いを踏み潰すことが正しいことだとは、もう思えないんだよ。だって、その願いは」

「黙れ!」


 ルトロスが叫ぶ。苦痛に顔を歪ませて、耳を塞いだ魔王の姿は痛々しかった。フェルシは抱きかかえたアンジェラの体を桜の木の下に優しく横たえると、耳を塞ぐルトロスの手をゆっくりとはがす。そのまま優しく両手を握って、愛する魔王に泣きそうな瞳で微笑みかけた。


「あんたと二人で幸せに生きたい、と思ってた、俺の願いと同じじゃん」


 ルトロスの手が震えているのが、フェルシには痛いほどよく分かった。彼は微笑んでいるのに、ルトロスと同じくらい苦しそうな顔をしている。彼は今、二人が過ごした気が遠くなるほどの時間の全てを、否定しようとしていたから。


「神が雑に創った世界を直すために、踏み潰されかけた俺たちの願いのように。神を殺して新たな世界を作ろうとする俺たちのために、踏み潰される願いがあるのなら。結局、俺らが世界を創り直したって何も変わりゃしない。愚かな神が俺たちに変わるだけで、同じ罪が繰り返されていくだけだよ」


「そうはならない、俺は神ほど愚かではない! お前は分かっているのか!? 俺たちがここにたどり着くまでにだって、既に踏み潰された願いなどごまんとある。ここでやめるということは、その願いを無駄にすることだ!」


「分かってるよ!」


 怒りに満ちたルトロスの叫びに応えて、フェルシも怒鳴る。その聞いたことのないほどの叫びに、ルトロスは苛立ちを募らせながらも思わず黙り込んだ。


「俺たちには決められないし、きっと俺たちにはもう他の未来なんて見つけられない。俺たちはあまりに遠くまで来てしまったから。でも、あの子ならきっと見つけられる」


 ルトロスの体を優しく抱きしめて、フェルシは祈るように告げる。


「生存不可能なはずの崩壊寸前の世界で、サターンは生きていた。生きることを諦めずに、泣き続けて俺たちに見つけさせたんだ。それに、あの子はロベリアを救うのは無理だと言われても、諦めず飛び出していった。あの子はいつだってもう一つの選択肢を見つけてきたんだよ。不可能を可能にしてきた、いつだって諦めることのなかったサターンなら、なかったはずの選択肢を選べるかもしれない」


 フェルシを拒絶するように、ルトロスは抱きしめ返すこともせず立ち尽くしていた。それでも、フェルシは語り続ける。


「もう何がしたかったのか、何を大切にしたかったのか、何が正義だったのかも分からなくなった俺たちだけど、伝えたいことは全部あの子に伝えてきた。俺たちの本当の願いを、あの子なら見つけてくれるかも。最後の審判は、あの子に任せよう」

「……最初から、そのつもりだっただろう」


 返ってきた返事は、信じられないほど機嫌が悪い。魔王はもはや隠しきれないほど苛立っていたが、なんとか怒りを押さえ込んだようだった。


「今すぐあの子を迎えに行ってくる。お前はここで頭を冷やせ。その女に惑わされただけだろう、冷静になれば考えも変わるはずだ」


 そう告げて、ルトロスは紫色の羽根を羽ばたかせて飛び去る。フェルシはそれを見送ると、桜の木の下のアンジェラに駆け寄った。その穏やかな寝顔に微笑み、彼女の頰にキスをして。フェルシは最後の審判を前に、まどろみの底に沈んでいった。

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