第29話 失われた正義

「嫌だ」


 長い沈黙の後、フェルシは微かな声で呟いた。


「あんたが魔王なんかのはずない。なんかの間違いだろ? あの森で連れ去られてから、あんたに一体何があったんだ」


 消えそうなほどに小さな声で、ルトロスに問いかける。ルトロスは困った顔でフェルシの頭を撫でていたが、やがて彼自身の物語を語り始めた。


「俺が小国の王族の末端だということは昔教えたね。お前と離ればなれになった日、あの森に来たのは祖国の使者たちだったんだ。


 俺が生まれたのは魔族の国でね。生まれたときからずっと、次期魔王の座を巡って親戚たちは争い続けていたんだ。俺の母は魔王だった父の愛人だった。俺は魔王の血を強く引いているが、母を引き取った分家は力が弱く、真っ先に権力争いの犠牲になってしまった。それで俺は国を追い出され、お前と出会ったあの森のたどり着くまで放浪していたというわけだ。


 ところが、ある日突然魔王城に神託が下った。次の魔王はいつか現れる勇者に殺される定めにある、と。そしてその神託とともに神の怒りが降り注ぎ、俺の父だった魔王は殺された。そこからは誰も魔王になりたがらなくなって、王位争いは王位の押し付け合いに変わった」


 語るルトロスの表情はどこか冷たい。


「それで、俺にお呼びがかかったというわけだ。だが、俺だって黙って殺されるつもりなどなかった。なんとかお前のもとに帰ろうと戦って、戦って……。気づけば、城に生きているものは誰もいなくなっていた」


 フェルシは、この城に入って見た惨状を思い出す。


「こんなに血で汚れてしまった手で、お前を抱きしめていいのか分からなかった。けれど、もう一つの神託が下った時に、全ては必然だったと気がついた。白い髪に桃色の瞳……。絶対に、勇者はお前だと確信した。それから、ずっとお前が来るのを待っていたんだよ」


 そしてルトロスは、今にも消えてしまいそうな笑顔でフェルシに告げた。


「さあ、世界を救う時だ。フェルシ、俺を殺してくれ」

「嫌だ!」


 フェルシはルトロスの顔を見ずに、ただ首を横に振る。そんな彼の様子に、ルトロスは諭すように言い聞かせた。


「その手に握られているのは、正義の象徴だろう? さあ、今こそ正義が悪を打ち倒す時だ」


 その言葉はフェルシの中の何かを爆発させる。もう、フェルシは自分の内側から湧き上がってくる感情を抑えることができなかった。


「正義ってなんだよ!? 今ここでルトロスを倒すことが正義なのか? ルトロスはこの世界でただ一人、俺を大切にしてくれた人なのに! この世界の人たちはみんな俺をドブネズミかなんかだと思っていて、隙を見せれば追い払おうとしてくる。そんな奴らを救って、恩人のあんたを殺すことのどこが正義なんだよ? なあ、教えてくれよ。一体何が正義で、何が悪なんだ!?」


 フェルシの叫びに、ルトロスは目を見開く。しばらく彼は立ち尽くしていたが、やがて強くフェルシを抱き寄せた。


「じゃあ、やめるか」


 その声は、罪悪感に満ちていて、けれどどこか嬉しそうでもある。


「二人で、抗ってみるか。神に、世界に、正義に」


 フェルシはそんなルトロスの体を強く抱きしめ返して、幸せそうに笑った。やっと、長い間持ち続けた願いが叶うのだ。フェルシはルトロスのぬくもりに包まれながら、今が一生続けばいいと思っていた。

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