第16話 一夜限りの恋

「あんたって高い女だな」

 彼女の働く店先で、すっからかんになった財布を悲しげに見つめながらフェルシは女に告げた。アンジェラという名の彼女は娼婦で、フェルシは彼女と共に一夜を過ごす権利を買わされる羽目になったのだ。


「その代わり、最高の夜にしてあげるわ。私にしてほしいこと、なんでも言ってちょうだいな」


 悪びれもせず微笑む彼女に、フェルシはため息をつく。アンジェラに迫られたとき、フェルシは彼女を振り切ることができなかった。自分にしなだれかかるアンジェラを力づくで引き離すことが、どうしても出来なかったのである。ルトロスたちに助けを求めようと彼女を連れたままあの本屋に戻っても、もう三人の姿は無かった。フェルシがいないことに気づいて探しに行ってしまったのかもしれない。こうなったら、この街で行く当てもなかったフェルシはアンジェラの頼みを聞いてやるしかなかった。


「お店に入る?それとも、別のところに行きたい?」


 フェルシの腕をとってアンジェラが甘い声で問いかける。フェルシは気が遠くなりそうなのをなんとか堪えながら彼女に告げた。


「そういうのはいらないから。逆に、あんたは俺と何がしたいの? あんたがしたいこと、なんでも付き合ってやるって言ったらあんたは嬉しい?」


 それを聞いて、アンジェラは目を丸くした。しばらく彼女は困り顔をしていたが、やがて何かを思いついたらしい。フェルシに向かって天使のような笑みを浮かべた。


「本当になんでも付き合ってくれるの?じゃあ、私、どうしても行きたいところがあるの。付き合ってくれる?」


 その笑顔に、フェルシは顔を真っ赤にして頷く。彼女の笑顔は弾丸のようにフェルシの心を撃ち抜くのだ。今までそんな経験をしたことのなかった彼には、どうしていいかわからない。そんなフェルシの様子を、アンジェラは楽しそうに見つめるのだった。



※※※



「あなた、この街の人じゃないでしょう」

「まあな」


 日が落ちても看板はキラキラ輝き、人の波も引かないまま。そんな雑多な都会を二人寄り添って歩く。フェルシの答えにアンジェラはやっぱり、と笑った。


「だと思った。この街にはあなたみたいに純粋な人はなかなかいないもの。女遊びをしたことがないのね」

「おおおおんな遊び!?」


 フェルシは彼女の言葉に動揺を隠せない。


「そんなんしたことねーよ!そもそも、今まであんたみたいな女には会ったこともないし」

「私みたいな女?」


 首を傾げるアンジェラに、フェルシは真っ赤になりながら答えた。


「そうだよ!今まで、女なんて近くにいたことなかったんだ」

「お母さんは?」

「いたことない。気づいたら兄貴代わりみたいなやつと一緒にいた。その後会った女は妹みたいなのだったし」

「そうなのね。私も似たようなものだったわ」


 その言葉に今度はフェルシが首を傾げる。


「似たようなもん?」

「私も、両親の顔はあまりよく覚えてないの。でも、弟はいるのよ。優しくて可愛い子なの。あの子のためなら私、なんだって出来るの」


 そう言う彼女はなぜか今にも消えてしまいそうに見えて、思わずフェルシはその手を強く握った。まるで、はぐれないように母親の手を握る子供のように。そんなフェルシに、アンジェラは柔らかに微笑むばかりだった。



※※※



「ここは……」

「とっても、きれいでしょう?」


 アンジェラがフェルシを連れてきたのは、賑やかな街の外れにある静かな池のほとりだった。薄桃色の花を付けた桜の木が一本咲いていて、その花びらがひらひら舞い落ちるさまは息を飲むほど美しかった。


「あんなごちゃごちゃした街の外れに、こんな綺麗なところがあるなんてびっくりだ」

「そうでしょう。みんなここのことはあまり知らないのだけど、私はこの街でここが一番好き」


 彼女はそう言うと、フェルシに甘えるようにしなだれかかる。フェルシを見上げるその瞳はどこか寂しげだった。


「ねえ、私の話を聞いてくれる?」

「もう今更嫌だなんて言わねーよ」


 フェルシが答えれば、彼女は安心したように頷く。


「私の弟はね、病気なの。この街のお医者様には治せない病気なのですって。でも、薬があれば病気が進むことは止められる。薬はとても高いけど、あの子が痛い痛いって言うのを聞いて放っておくことなんて出来なかったのよ。でも、私みたいな身寄りもない女が高い薬を買うお金を稼ぐには、こんなお仕事をするしかなかった」


 池に映る薄桃色の花を見つめて彼女は静かに問いかけた。


「ねえ、私って、汚いと思う?」


 その言葉にフェルシは即座に首を振る。


「あんたは綺麗だよ」


 それを聞いて、アンジェラは寂しそうに笑った。それは見ているだけで胸が痛くなるような笑顔だった。


「あなたに言ってもらえたら、本当にそうなのかもしれないって思える」


 フェルシは彼女に何かを言おうと口を開いたが、それよりもはやくアンジェラに口を塞がれて何も言えなかった。彼女の柔らかい唇が、彼の唇に触れていたのだ。突然のことに驚いたフェルシは目を見開く。ちょうど強い風が吹いて、桜の花びらがキスをする二人を包み込んだ。花びらはまるで魔法にように二人を包み、二人だけの世界を作り出す。


 ゆっくりと唇を離した二人は、呆然とお互いを見つめていた。フェルシには目の前のアンジェラが少女の姿に見えたのだ。背が低く、やせ細って、今にも泣きそうな顔をした少女。それがあまりに頼りなくて、思わずフェルシは彼女を強く抱きしめた。抱きしめたアンジェラは確かに出会ったときのままの美しい大人の女性だった。けれど、あの少女こそ彼女の本質なのだということをフェルシはなぜか確信していた。


 気づけば桜は全て舞い落ちて、二人だけの世界は終わっていた。フェルシはなぜか溢れてくる涙を止めることが出来ないまま、彼女を必死に抱きしめる。最初は戸惑っていたアンジェラも、そんなフェルシをゆっくりと抱き締め返す。


「あんたが、少女のように見えたよ。あんた、ずっと一人で傷ついてきたんだな」


 フェルシが泣きながら言えば、アンジェラもほろほろ涙を零した。


「私にはあなたが少年に見えたわ。真っ白な髪に、桃色の瞳をした迷子の少年。黒い髪も赤い瞳も素敵だけど、本当のあなたはもっと綺麗なのね」


 フェルシからゆっくりと離れて、アンジェラは彼の瞳を真っ直ぐに見つめる。


「ここを訪れた男女は、相手の真実の姿を見ることが出来る、という言い伝えがあってね。今まで信じていなかったけれど、本当だったなんて」


 彼女はフェルシの頰に手を寄せて、愛おしげに撫でた。


「あなたに素敵な一夜をもらってしまったわ。今日はとっても楽しかった。もうそろそろ、お店に帰らなければ」

「あの店、やめちまえよ」


 切実な声で言ったフェルシに、アンジェラは笑って首を振る。


「出来ないわ。弟のためにはこうするしかないもの」

「あんたは傷ついてるじゃないか。このままじゃあんたが死んじまうよ」

「人はいつか死ぬものよ。それが早いか遅いかだけの違いだわ」

「……死にたいの?」


 未だ涙を止められぬままのフェルシが問いかける。


「死にたいわけではないけれど。でも、終わりが来ればいい、と思うことはある」

「終わり?」

「今、この世界は滅びようとしているのですって。魔王が勇者に倒されれば世界は直るのだというけれど、私嘘だと思うわ。だって、魔王が壊したから世界が滅びるのではないのだもの」

「え……?」


 戸惑うフェルシに、アンジェラは微笑んだ。今にも消えそうな儚い笑みで。


「壊れていくのは人の心よ。勇者には救えない。どうせ滅びてしまうのなら、最高の終わりを迎えたいものだわ。花は散る様こそ美しいのだから」


 その言葉に、フェルシは目を見開いた。まるで何かを見つけた時のような顔で、彼はしばらく呆然とアンジェラを見つめていた。


「じゃあ、あんたに最高の終わりをあげるよ。約束する」


 そう告げたフェルシは今までとは全く違う顔つきをしていて。アンジェラは少し驚いて、そして幸せそうに笑った。今までで一番、幸せそうな笑みだった。


「じゃあ、あなたが世界を終わらせてね。約束よ」


 風が吹いて、桜の花びらがハラハラと散っていった。

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