老婆。

タッチャン

老婆。

皆さんは病院が好きだろうか?私は好きだ。

病院、と言う看板をでかでかと掲げ、堂々とそびえ立つ外観の振る舞いも好きだが、それよりも一歩中へ踏み込むとあの独特な雰囲気───あぁ私は病院へ来ているのだなと思わしてくれる、あの雰囲気。

そして待合室には見知らぬ子供が泣きわめいて、その隣では母親が必死に子供の声のボリュームを下げようと意味の無い行動をしたり、熱冷ましシートを額だけではなく、首や首の後ろ、極めつけは手首に巻き付けた若者が居たり、隣の客(客と言うのは少々乱暴な言い方だが)と世間話に花を咲かせている老人だったりと様々な人がいるあの独特な空間が、私は好きだ。

だがこれらの話はこれからの物語に関係はない。


ある小さな町に年老いた夫婦が経営する小さな診療所があった。

その老夫婦はそれだけで家計をやりくりしていた。

その小さな町の住民達は何故か隣町の大きな病院に直接行かず、わざわざその老夫婦の診療所で一度診て貰ってから、隣町の大きな病院へ行くのだった。

この一連の行動はこの小さな町では至極、当たり前となっていた。

そして今日も体調が優れない若者が一人、小さな診療所に来て、白衣を着馴れた年老いた男の前に座ってこう言った。

「最近ダルいんですよ…大学の授業も集中して聞けな

 いし、サークルの集まりだって行けないし…

 俺、どうしちゃったんですかね?」

年老いた男は目を閉じて、若者の匂いを嗅いだ。

そして言った。

「……あぁ、こりゃいかん。あんた風邪引いてるよ、

 婆さんに風邪薬を作る様に言っとくから、今日は

 帰って寝なさい。そんで、明日取りに来なさい。

 いいね、今日はゆっくり休みなさい。」

若者の表情は晴れやかになって、言った。

「マジかよ…本物じゃん…」と。

老人は言った。

「何が本物だい?それよりしっかり睡眠を取るんだ

 よ。いいね?」

若者は言った。

「いや、最近、SNSで話題になってるんすよ。

 目の見えない爺さんが患者の匂いを嗅いだだけで

 患者の状態を当てる事が出来るっていう事が。

 凄いっすね。本当だったんですね。」と。

老人は座り馴れた椅子に背中を預けて言った。

「その…えすえむえす、とかってのは知らんがね、

 私は目が見えない分、嗅覚が優れておってな。

 それにあんたは、山岸さんの息子さんだろ?

 匂いでわかるよ。山岸さんと同じ匂いだもの。」

若者は驚いて丸椅子から立ちあがり、言った。

「そんな事までわかるんですか!?マジかよ……

 親父が行ってました、ここに行くなら貴方によろし

 く伝えて欲しいって。」

老人は言った。

「私が最後に見た山岸さんの姿は不良の格好をして

 ね、ここに来たんだよ。懐かしいね。30年以上も

 前の話だよ。それから私は目が見えなくなってね

 、どんな男前になったのか分からず終いさ。

 私の頭の中では彼の今の姿は昔から変わらん、

 不良みたいな姿だと思っているよ。そのせがれが

 今、私の前にいる。時が過ぎるのは早いねぇ。

 あんたの匂いを嗅ぐと昔を思い出すよ。

 それより、ほら、帰って寝なさいな。」


若者が帰ると老人の女房───老婆がカーテンをめくり、小さな診察室に入ってくる。

そして彼女には大きすぎる、診察用のベッドに腰かけて彼女は言った。その声は掠れていて、大の男が喋っている様に聞こえた。

少なくとも彼にはそう思えた。

「何余計な事喋ってんだい?あの子供の親父の事な

 てどうでもいいんだよ。余計な事言って、あたしの

 邪魔をされたんじゃ困るんだよ。そうだろ?」

魔女の様に尖った鼻を彼に向けて言った。

彼は弱々しく言葉を返す。

「…ごめん。いや、最近は新規の客がいないだろ?

 あの子を使って、あの子の友達とかその周りの人が

 SNSを見て、ここに来てくれたらいいなと思って

 言った事なんだよ…」

老婆は言った。

「それをあたしがあんたに頼んだかい?」

老人は首を横にふった。その細い首の骨が折れるのではないかと心配になる程に。

「誰のお陰で生活出来てると思ってんだい?えぇ?

 指を指すんじゃないよ。あんたはただ黙って、

 あたしの言った通りにすればいいんだよ。」

彼は椅子から立ちあがり、白衣を脱いでハンガーに掛け、それから煙草に火をつけた。

「…分かってるさ。婆さんの言った通りにするとも。

 今までもこれからも、私はそうする。今後一切、

 余計な事はしないし喋らんよ。そうするとも。」

彼はポケットからスマホを取り出していじった。

老婆は言った。

「必ず守りなよ。破ったら痛い目みるよ。」


次の日の夕方、若者は風邪薬を貰う為、小さな診療所に向かっていた。

小さく賑わう商店街を歩いていると、前方から白衣を着た老人の姿が目に入った。若者は思った。

目が見えないのに外に出て大丈夫か?

あれ?杖持ってないな。大丈夫かな?助けた方がいいかな。

そんな事を思っていると、老人との距離も縮まり、彼の表情も確認できた。

その表情はそれはそれは大層苦しそうな顔だった。

声を掛けようとしたその時、老人の後ろから怒鳴り声が響き渡った。

その怒鳴り声の持ち主は老婆だった。

「あんた!また余計な事しやがって!痛い目みない

 と分からんのかい!こら!待ちな!」

そう叫ぶと頭の上で鈍く光る包丁を振り回して彼を追いかけていた。

老人は後ろを振り返り言った。

「婆さんや!許しておくれ!すまなんだ!」

彼の逃走劇は亀の方が早いのではと思うほどノロノロとしたものだった。

その光景を見た町の住民達は、目を疑った。

老婆に追いかけられている爺さんはしっかりと目を見開き、前を見定めて、その瞳の中では恐怖感を携えながら逃げていたのだ。

老人は若者の姿を見るとその後ろに隠れた。

息は切れきれになっていた。

「山岸さんのせがれよ、た…助けておくれ…

 婆さんに殺される。まだ死にたくない!」

老婆は若者の前に立ち言った。

「小僧、そこをどきな!その爺さんの目を抉って、

 本当に目を見えなくしてやるんだ!どきな!」

若者は戸惑った表情で言った。

「爺さん、目見えてたの?え、嘘だったの?」

老人は言った。

「私はずっと昔から見えとるよ!」


SNSで老夫婦はまた有名になった。別の意味で。

「数十年間、盲人の振りをして診療所を経営してい

 た老夫婦、逮捕される。

 彼は裁判所でこう言った──

 全部、婆さんが考えた事なんです。私は婆さんの

 言う通りにしただけなんです。と。」

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老婆。 タッチャン @djp753

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