扉を覗いて

村田天

扉を覗いて

 島崎しまざき先輩のことは中学の体育祭で知った。


 と言っても特段活躍していたわけではなくて、先輩はリレーで盛大に転んだのだ。回転したんじゃないかと言う位のあまりに見事な転び方にびっくりして目を奪われた。

 他の種目に出ているのも全部見たけれど、どれも活躍しているとはいえなかった。


 それからしばらくしてわたしは彼と委員会が同じだということに気づいた。


 先輩はいつもふにゃふにゃしていて、まるで頼り甲斐がないようで、委員会でも同じクラスの女子によく怒られているのを見た。


 先輩は何を言われても怒らない。いつもニコニコしていて、時々困った顔をするくらい。

 

 そもそもが先輩は痩せぎすで背だって低いし髪だってほわほわで男らしさ自体がないのだ。顔立ちはその分甘いというか、可愛いけれど、あれじゃきっとモテないだろう。


 それからわたしは文化祭や始業式、終業式、全校生徒が集まる各種イベントで先輩の姿を見たけれど、男子と話していることのほうが多かった。

 廊下でたまに見かける時もへにゃへにゃした笑いを浮かべて友達の男子にどつかれていたので、ボケかツッコミかでいうとボケだと思う。性格はたぶん大らか。おっちょこちょいで少し抜けてる。


 それから三年生の卒業式が来た。


 じっと見ていたけれど、見る限り先輩に告白しようとしている下級生だとか、同級生はいないように見えた。


 以上が、わたしの二年間に渡る島崎先輩の観察だ。


 わたしは結局、見てるだけで何もしなかった。





 高校に入学して、しばらくした日。わたしはひとつの決心を胸に、お昼休みに二年生のフロアを訪れた。島崎先輩を訪ねるためだ。


 二年のフロアはひとことで言うと怖かった。

 一年しか違わないはずなのに、みんな体が大きくて、女子の先輩も、みんな制服を着こなしていて、堂々としていてお洒落に感じられる。冷静に見ればそうでもないのかもしれないけれど、みんな綺麗で、芸能人のように感じられた。


 クラスまでは知らなかったのでいくつか教室を覗き込んでみること三つ目。島崎先輩は、いた。教室を覗き込んですぐ気づいた。


 見た瞬間にどきんとした。

 先輩は以前と少しだけ雰囲気が違っていたからだ。

 一年間見ていなかった間に身長も伸びて、柔らかかった雰囲気は幾分かシャープなものになっていたし、友達と話して笑っているさまは、もうきちんと男の人だった。


 それを見てなんとなく作ってきた決心のようなものが揺らいでしまった。わたしが頭の中で記憶していたよりも、先輩はずっと格好よかったのだ。


 島崎先輩をじっと見つめていたせいか、彼がこちらを向いて、目が合った。

 けれども自分に用事とは微塵も思わなかったらしく、すぐにまた話していた友達に視線を戻した。


 自分のクラスを出た時は勇んで来たのに、なんだか勢いがくじけてしまった。今日、無理かもしれない……。そう思って引き返そうとすると突然女の先輩に話しかけられた。


「一年生だ! 誰に用?」


 その先輩の顔をぱっと見上げる。とても綺麗な人で、笑っている顔には歳上の余裕のようなものが感じられた。わたしと違って、すらっと背が高く、シャツの一番上のボタンを開けていて白い胸元に控えめだけれど可愛いトップの付いたネックレスが覗いていた。


 島崎先輩は同じクラスにこんな綺麗な人がいるんだ……。


「ん? 島崎?」


 視線の先を辿ってわかったのか突然言われてびくっとしてしまう。


「そうなの? 島崎に用事なんだ?」


 言われて追加で頬が熱くなった。

 慌てて首を横に振るけれどその先輩が大きな声で「しまざきー!」と呼んだので思わず逃げてしまった。


 走って階段を降りて自分のフロアの廊下の端まで行ってぜはぜはと息を吐く。頭がぐるぐるする。


「あ、のんちゃん。どこ行ってたの?」


 教室に戻ると友達のちいちゃんが声をかけてくれる。


「もしかして、言ってた二年の先輩? どうだった?」


 黙って首を横に振る。


「え、いなかった?」

「いた、けど……」

「話しかけたりしなかったの?」


 こくりと頷く。

 しなかったのではなく、できなかったと言った方が正確だろう。


 その時初めて後悔した。せめて気軽に話しかけられるくらいに面識を作っておくべきだった。わたしと先輩は知り合いですらないのだ。呼び出したら即告白みたいな関係性じゃ、動きにくい。


 ぽつぽつとそんなことを打ち明けると目の前のちいちゃんがうーんと首を捻る。


「じゃあ、諦めるの?」


 黙って首を横に振った。


 諦めるも何も、わたしはまだ何もしていない。それに、それくらいで消える気持ちなら中学三年生の一年間、会わなかった間になくなっていたはずだ。





 わたしは次の日もお昼休みに先輩の教室に行った。

 先輩は教室でお弁当を食べるタイプらしく、今日もいた。


 入口で浅くなった呼吸を止めそうになっていると今度はまた別の男子の先輩に声をかけられる。


「何か用?」

「ひッ」


 その先輩が割といかつい顔をしていたので、わたしは早々に逃げ出してしまった。


 後悔してその次の日も行ったけれど、結局すぐに戻ってしまった。


 訪ねること四日目にこの間とは違う女の先輩が声をかけてきた。


「ねえ、名前、なんて言うの?」


 笑顔で言われたけれど、硬直してしまう。

 先輩に名前を聞かれるとか、何かしただろうか。怖い。


「ご、ごめんなさい!」


 走って逃げた。

 その後もわたしは休日を挟んで三日に渡り、先輩の教室を覗き込んでは逃げるというのを繰り返した。


 次の日は最初の日に声をかけてきた先輩がニコニコ笑いながらじりじりと距離を詰めて「一緒にお弁当食べない?」と聞いてくる。


「お弁当……持ってきてないです」

「とりあえず座ってよ~」

「ごめんなさい!」


 逃走。

 ここまでくるとわたしのやっていることはもう、話しかけたりするためではなくて、ひと目顔を見るためだけな気がしてくる。だいぶ危ない人になっている自覚はあった。それでも、話しかけることも、諦めることもできなかった。


 次の日にまた訪れると教室の雰囲気がおかしかった。いつもより人が多い。それなのに、微妙に騒がしくない。


 スマホを覗き込んでいたり、お弁当を食べたりしているけれど、雑談が妙に少ない気がする。いつもこれより少人数の時だってもうちょっと騒がしい。ほんとにちょっとした違和感だけど、気持ち悪かった。


 島崎先輩はこちらに背を向けて座っていたけれど、ゆっくりと振り返って、眉根を少し寄せた困ったような顔でわたしを見た。


 うわ。どうしよう。

 教室は静かだったし、目も合った。今、口を開けばいいんだ。何を言うかだって、毎日ずっと夜に考えてたくさん作ってある。


 それなのに、頭が真っ白になった。


 口を開いても渇いた息しか出ない。


 わたしは結局、踵を返した。

 背中に教室からどっと喧騒が聞こえた。一体何が起こっているのか。あの教室は何か変だった。


 それでも、諦めるわけにはいかない。わたしはまだ何もしていないのだから。





「ねぇ、いい加減話しかけるか、諦めるかにした方がいいよ」


 ちいちゃんのもっともな助言はわたしを焦らせる。確かに、もう二週間も同じようなことをしている。今日こそは、話しかけて言うんだ。


「こんにちは」って。


 それから、名前を言って、知ってもらう。


 非常にささやかではあったけれど、これが今のわたしの精一杯の望みだった。告白なんてとても無理だし、友達になりたいなんて図々しいことは思わない。せめて挨拶できるような知り合いになりたい。


 その日のお昼休み、島崎先輩は教室にいなかった。

 扉を覗き込んだままキョロキョロしてると突然後ろから声をかけられてビクッとする。


「一年B組、秋葉あきば乃亜のあ

「ひっ」

「俺になんの用?」


 背後にいるのが島崎先輩その人だとわかるけれど、振り向けない。なぜわたしが先輩に用があると知っているのか、名前を知っているのかもわからない。


 パニックで息を止めていると島崎先輩の後ろから体格の良い男子生徒が彼ごとわたしを押して、教室に入った。


「よし! 前の扉も閉めろ!」


 声がかかって扉が閉められ、わたしは教室の中央の机まで連れてかれて、座らされた。


 周りにはぐるりと三年の生徒が並んで、完全に包囲された。もう逃げられなかった。なんでこうなったの。


「え、ちょっと……」


 島崎先輩は怪訝な様子だったけれど、「まぁまぁ」などと笑いながら諌められてわたしの目の前に座らされた。


 何度か話しかけてくれた女の先輩がわたしの前に出てまたにっこり笑う。


「ねえ、秋葉ちゃん、島崎に用事、あるんでしょ?」


 あるけど。この状況ではそれどころじゃない。


「ほら、言ってみなよ」


 後から思えばそれはとても優しい声音で、決して命令ではなかったと思う。それでもその時のわたしは、言わなければ帰れないような圧力を感じてしまった。


 こんな大勢の前で言わなければいけないの?


 二年間話しかけることすらできなかったのに。


 気が遠くなる。


 教室じゅうの視線が集まる中、消えてしまいたくなった。それでも、プレッシャーに耐えかねて口を開く。


 口を開くと共に緊張と謎の恐怖で涙が出た。「頑張れ」とどこかから声がかかる。何を頑張れというのだ。


 でも、帰るためには言わないわけにはいかないんだ。下を向いたまま、島崎先輩の顔なんてとても見れない。震えながらなんとか渇いた唇を開ける。握りしめた拳が痛い。


「わ、わたじ……ちゅ、中学のとぎから……しまざきぜんぱいが好きだったんです……」


 涙声で小さく告白すると、固唾を飲んで聞いていた周りからひゅうっとどよめきが起きる。

 島崎先輩が目をまん丸に開いて顔色を変えたけれど、周りは笑っていた。


「え、中学ってことは南中なんだ?」


 周りの先輩が聞いてくる。


「は、はい……」

「なんで好きになったの? きっかけは?」


 言ったのに、更に取り調べが続いてしまっている。


「ぜ、先輩が、体育祭でこけたから……です」


 言いながらまた涙が出てくる。もう帰りたい。


「ほんと? お前こけたの?」


 笑いながらクラスメイトに言われて島崎先輩が嫌そうな顔をそちらに向ける。


「え、なんで転んだのに好きになったの?」

「ころびかたが……格好よくて……」


 周りがどっと笑った。


「それから……委員会で……同じクラスの女子に怒られてて……」


 笑いがますます大きくなる。


「や……やざしいひとだなぁって……」


 わたしはそこでまた泣いて、続きは声にならなかった。


 教室にはまだ笑い声が渦巻いていて、それ以上嗚咽でしゃべれなくなったわたしはどうしたらいいのかわからない。


「お前ら、ふざけんなよ!」


 島崎先輩が大声を出して、周りがしんとなった。


「……いい加減にしろよ」


 顔を上げると怒ったことを見たことのない島崎先輩が、怒っていた。胸が痛い。たまらなくなって立ち上がる。


 結局走って逃げた。





「今日は行かないの?」


 お昼休みにちいちゃんに聞かれて首を横に振る。

 行けるはずがない。学校にだって行きたくなかったのに。


 その日わたしは本当に久しぶりに、先輩の教室を訪れることなくぼんやり過ごした。


 放課後。教室の扉のところに最初に声をかけてくれた先輩が来た。


「秋葉ちゃんちょっと来てくれる?」


 手をぎゅっと握られて引っ張られる。どこに行くのかも告げられず、廊下を一緒に歩く。


「あ、あたし安藤っていうんだ」

「はい」

「昨日ごめんね。みんな、悪ノリし過ぎちゃって……」


 安藤先輩の話では、わたしがお昼休みに島崎先輩を見に来てすぐに逃げ帰るのは、名物となってクラス中の話題となっていたらしい。


 だから名前も調べられて、途中からはなんとかわたしが島崎先輩に声をかけられるようにと、いろんな手を使って画策したのだけれど、それでも逃げ帰るわたしに周りが焦れてあの日島崎先輩に声をかけるように言ったらしい。


「でもその後のことは島崎は聞いてなかったから怒らせちゃって……みんな島崎があんなに怒るの初めて見たんだよ。悪いことしたなぁって」


 確かに……わたしも初めて見た。申し訳ない。

 しょんぼりしていると安藤先輩が顔を覗き込んで首を横に振る。


「みんなは秋葉ちゃんの告白を笑ってたわけじゃないし……島崎も秋葉ちゃんに怒ったわけじゃないよ?」


 黙ってその言葉を考える。そうなんだろうか。でもやっぱり恥ずかしくて悲しいようなモヤモヤした気持ちは胸の奥に沈殿していた。


「島崎はさ、二年になってから性格を知らない下級生にちょっとだけ人気あったんだけど、ぽやっとして抜けてるから、みんなすぐにフェードアウトしてって……でも秋葉ちゃんならそんなことはなさそうだね」


 安藤先輩は笑いながらそう言って、自分の教室の前まで来てわたしの手を解いた。


「それでね、みんなでお詫びを考えたんだけど……」


 先輩が教室の扉の窓を軽く指差した。

 覗き込んだ教室はしんとしていて、中に島崎先輩がひとりで座っていた。


「帰ってもいいよ。でも、もし、行きたければ」


 笑って、彼女はどこかへ行ってしまった。


 結局わたしはその後たっぷり三十秒は硬直してから、扉を開けた。島崎先輩は聞いていたのか、扉の音にこちらを向いて軽くぺこりとした。


 島崎先輩の前まで行くと彼が隣の椅子を引いたのでそこに座った。何を言えばいいんだろう。伝えるつもりのなかった告白はもう言ってしまった。


 ドキドキしていると島崎先輩が先に口を開いた。


「ごめんね。俺はまさか本当に告白だとは思ってなかったから……あんな状況で言わせるなんて、あり得ない」

「それは……いいんです。どうせ、ああでもないと言えなかったですし……」


 思い出したら恥ずかしくて、語尾が小さくなる。

 二人きりにさせてもらったもののそれきり会話はなかった。あれだけたくさん考えていたのに。


「あの、なんで……告白じゃないと思ったんですか?」

「……面識なかったし……俺そんなモテないし……」


 面識がなくてもモテなくても、あの状況では少しは疑うべきじゃないかとも思うけれど。島崎先輩のその、なんとなく人を脱力させる感じがわたしは好きだった。


 わたしは文字通り力が抜けて、幾分か普通に話せるようになった。


「先輩、わたし、卒業式の日に言いたかったことがあるんです」

「え、なに」

「卒業おめでとうございます」

「それだけ?」


 先輩は拍子抜けした顔をした。


「言えなかったから、本当に後悔して……先輩の高校だって調べて、ちょっと学力足りなかったから、頑張ったんですよ……」

「そうなんだ……他には?」

「えっ」

「言いたかったこと」

「こんにちは。わたしの名前は秋葉乃亜です……できたらわたしと……知り合いになってください」


 英文の和訳を読み上げるようにたどたどしく言ったわたしに島崎先輩は笑って「また来てよ」と言った。


「え、またって……」


「もう少し話してみたいから。お昼にまた来て。教室だとみんないるから。どこか二人で食べよう」


 黙ってるわたしに「嫌? あ、俺がそっち行く?」と慌てたように聞かれて、わたしは急いで首を横に振る。


「また来ます」


 島崎先輩が柔らかに笑った。


 教室には放課後のだいだいの光が差し込んでいた。


  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

扉を覗いて 村田天 @murataten

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ