2 二〇一〇年 白の誘惑 2


 ヒロアキの姿が見えなくなると、私はそっとまた尾行した。彼の住所を突き止めておく必要があったからだ。もしもさっきのが偽名を口にしていたのなら、警察に通報しても彼を捕まえることはできない。それでは意味がないのだ。

 もしこの尾行がバレたら殺されるかも知れない。そう考えると体には緊張が走り、心臓はさっき首を絞められたときのように高鳴り出した。

 ヒロアキはどんどん細い道へと入っていく。そのままどこかで尾行に気づかれ、袋小路で返り討ちにでもされたら逃げられない。

 だが、ヒロアキはこちらを振り返ることなく、三つ目の角を曲がった先にある古びた一軒家の門を潜っていった。そのまま「ただいま」を言うでもなく中に消えた。

 表札を確かめる。

 間宮、とあった。

 どうやら、噓はついていないようだ。

 一人暮らしにしては大きい。二階建てで、一階に少なくとも三部屋はありそうに見える。二階にも二部屋くらいはあるだろうか。大学生だと言っていたし、まだ実家から通っているのだろう。

 じっと見上げていると、

「こんにちは」

 背後から声をかけられた。

 振り返ると、そこに中年の男性が立っていた。私服だからすぐにはわからなかったが、よく見ると町中(まちなか)でよく巡回している警官だと気づいた。

「……あ、あの、こんにちは……」

「何か用?」

 言われた意味がわからなかった。なぜ突っ立っているだけで警官に用があると思われたのか。もしかしてさっきうっかりスマホで110番通報をしてしまったのだろうか、とも思った。でもそんなはずはない。旧式の携帯電話ならいざ知らず、数秒でロックのかかるスマホから勝手に電話がかかるなんて、あるわけがない。だいたい、相手は私服だ。勤務時間外だろう。

 となると──。

「いま、この家見ちょったじゃろ? 何か用があるんか?」

「いえ、とくに……ちぃと道に迷っちょるです」

「……どこに行きたいんじゃ?」

 警官はそれから私の全身を舐めるように見た。その視線が、猜疑心に満ちた粘着質なもので、嫌だった。職業的な視線なのだろうとはわかっていたけれど、それでもひどく不快な印象を与えるものだった。

「あ、あの、駅はどっちじゃろかな、と」

 警官はそっと私との距離を縮めた。

 それから私の背中に手を当て、あっちじゃ、と指で方角を示した。背中に手を当てる必然性があるとは思えなかったけれど、大人が子どもに接するときにありがちな距離の近さかな、とも思った。

「ありがとうございました。失礼します」

 礼を言って立ち去りながら、ふと振り返った。

 警官は私を見つめたまま、門の中へと消えた。

 え? 我が目を疑った。

 私は角を曲がったところで立ち止まり、じっと門の辺りを凝視した。だが、警官は十分待っても出てくることはなかった。

 あの警官は、あの家の住民なのか。たぶん、そうなのだろう。恐らく、ヒロアキの父親。

 私の首を絞めた異常な男の父親が、警官? 街の人々の暮らしを守り、犯罪に敢然と立ち向かうヒーローの息子が、通りすがりの人間の首を絞めたの?

 私のその頃の価値観では想像もできなかった。蛙の子は蛙が自然の法則だと思い込んでいたのだ。

 だからこそ、私はヒロアキを観察する必要に駆られていた。

 たとえば、クラリスはバッファロー・ビルという異常な犯人による難事件に挑むためにプロファイリングを用いた。私はいま、ヒロアキという恰好のプロファイリング材料を手に入れたのだ。これは運命よ。将来的犯罪者モデルであるヒロアキを観察できるのだ。必ず自分の未来にフィードバックがあるはず。

 ヒロアキを──自分の中の患者第ゼロ号にしよう。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

【発売前試し読み】単行本『毒よりもなお』 森晶麿/KADOKAWA文芸 @kadokawa_bunko

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

フォローしてこの作品の続きを読もう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ