2 二〇一〇年 白の誘惑 1


 路上で首を絞められるという経験は初めてだった。

 と言っても、屋内でならよくあったというわけでもない。私がそれ以前に首を絞められたことは二度しかない。一度目は、小学校の体育館でクラスの男子と喧嘩(けんか)した八歳のとき。そのことで彼は担任教師からこっぴどく怒られ、給食も食べさせてもらえなかった。

 二度目は、自室で父にだった。十二歳の誕生日にネックレスをくれた父は、それをつけるのを手伝う素振りで、私の首をそっと絞めた。ほんの三秒ほど。苦しい、と言うとにこやかに笑って手を緩めた。その後、何の説明も父からはなかったし、私のほうからも何も聞かなかった。あれは何だったのか、今でもよくわからない。

 きっと一度も首を絞められたことがないという人のほうが、圧倒的多数だろうから、「二度しか」ではなく「二度も」が正解かも知れない。

 そして──三度目は路上でだった。

 高校三年の夏で、私は予備校へ向かう途中だった。蟬がやけにうるさかった。蟬というのは、あれだけ大合唱していたら、自分たちの鳴き声以外は耳に入っていないのではないか、などと歩きながらぼんやりと考え、自然と噴き出る汗をハンカチで拭(ぬぐ)っていた。

 セーラー服のブラウスは汗で背中に張り付き、ひどく不快だった。学校規定の白の分厚い靴下がさらに不快感を増した。不思議なものだ。不登校の生徒のくせに、学校が休みに入るこんな時期になってから、制服で出歩くなんて。

 本当はサンダルで歩きたかった。けれど、予備校が制服で来るように指定している以上、それもできない。予備校へ通うのは、親との約束だった。高校へ行かないのは仕方ないから、せめて大学受験を成功させるためにも予備校へは行ってくれ、と。私としても、それを受け入れるのはやぶさかでなかった。が、どうにも今日は気分が上がらない。

 イヤホンからは、「銀河」が流れてくる。ああ、もう志村はいないのだ、とその声を聴きながら考える。毎年、ロッキンでフジファブリックに出逢えるのが楽しみだった。志村の、少し調子の外れた声を聴くと、どんな嫌なことでも乗り越えられる気がした。

 その志村がいない、初めての夏を経験していた。

 控えめに言って、とてもつらかった。

 こんなときは、自分がクラリス・スターリングになったと想像してみよう、と私は考えた。というのも、その頃の私は、トマス・ハリスの小説『羊たちの沈黙』にハマってしまい、その勢いで数か月前にツタヤのレンタルで借りた映画版の『羊たちの沈黙』の影響を受けまくっていたのだ。

 あの作品の影響で、私は大学で心理学を学ぶと決め、東京のJ大学へ進学するべく受験勉強に励むようになった。クラリス・スターリングは女性蔑視(べっし)が著しい世界でも自分なりの矜持(きょうじ)をもって進む聡明なFBI訓練生だ。映画版でクラリスを演じるジョディ・フォスターの美しい瞳は印象的で、演技以上にクラリスの聡明さを証明していた。

 その後のFBI捜査官になった姿が描かれる『ハンニバル』ではジョディ・フォスターが役を降りたため、ジュリアン・ムーアが演じている。顔も雰囲気も似たところがあるけれど、決定的な違いはジュリアン・ムーアにはある種の大人の色気が漂っているのに対し、ジョディ・フォスターのほうは高潔さが際立っているところだろうか。そう言えば、そのまじりっけのない瞳は、ほんの少し志村に似ている気もする。

 そのせいもあってか、ジョディ・フォスター版のクラリスのほうに共感できた。それに、『ハンニバル』は原作とはラストがだいぶ異なると噂で聞いていた。まだ原作は読んでいないけれど、ショッキングな内容だと聞かされると、受験終了後にしたほうがいいのかな、という気分になり、購入したもののまだページを開いていない。

 ともあれ、以来私は勉強に疲れてダレそうになったりするたびに、クラリス・スターリングのように凜(りん)として生きねば、と考えるようになった。心の指針が、いわゆる偉人ではなくて虚構の人物なのはどうかと思わないでもないけれど、私の知るなかでジョディ・フォスターが演じるクラリスほど高潔な人はいない。

 この日も、暑さの中でもクラリスのごとく姿勢を正すことを心がけていた。

 すると、突然、首に何者かの指がかかった。

 誰なのか、と考える暇はなかった。首を絞められているのだ、と理解することすら難しかった。わかったのは急に外部から首へ圧力がかかり、呼吸が困難になったことだった。

 後頭部に、その何者かの息がかかる。

 次の瞬間、身体が宙に浮いた。

 私は脚をばたばたと動かしながら、どうにか呼吸がしたくて自分の首にかかった圧力を弱めようと手をかけ、必死で爪を立ててその手をひっかいた。

 意識が遠のきかけていたが、限界まで私はその何者かの手の甲に爪を立て続けた。

 やがて、うめき声と共に、その何者かは手を離した。

 首にかかっていた圧力がふっとのくと、それまで停止させられていた血流が一気に動き出す。身動きできぬまま心臓の鼓動が正常になるのをじっと待った。

 私を殺しかけた何者かが現場から走り去る音が聞こえ、辛うじて首だけ振り向いてその者の背中を見た。瘦身(そうしん)だが、肩のあたりに程よい筋肉のある男だった。彼は一度だけこちらを振り返った。

 白い肌と目元までかかった黒髪がコントラストをなしている。その中で、空虚な目が、一瞬だけ私を捉(とら)えた。けれどそれだけだった。彼はそのまままた首を前に向け、走り去ってしまった。

 一瞬だけれど、なぜかその表情が亡きヴォーカルを思い出させた。

 あの瞬間、彼が見せた視線の中には、発覚を恐れる心理も、犯罪が未遂に終わったことへの後悔も、または怒りすらもなかった。そのことが、かえって彼のとった行動の不気味さを如実に表しているような気がした。

 私はいま、殺されかけたのだ。

 路上にへたり込んだままで、そう思った。

 彼がどの道を曲がったかは見極めていた。たしか、二つ先の角だ。

 私の生まれた街、山口県小和田市は平たんな街並みだから見晴らしがいい。一度路地裏に入ったところで、それほど複雑怪奇な迷路になっているわけでもない。街も人もシンプルを絵に描いたようなところがあるのだ。

 私は身を起こすと、埃(ほこり)を払ってから走り出した。追わなければ、と思った。このままでは終われない。中学校まで陸上部にいたから、その頃の筋肉がまだ残っていてくれたものか、私はさっき私の首を絞めた男の後ろ姿を再び見つけることができた。

 彼はもう走っていなかった。ただ茫然(ぼうぜん)と立ち尽くして、自分の手を見つめていた。それから、まるで何が起こったのかを思い出そうとでもするように空を見上げた。

 私は足音を忍ばせて彼に近づいた。左手にスマホを握り、110番を押して、いつでも発信できるようにしていた。右手には鞄から取り出したボールペン。こんなものが武器になるわけがないとはわかっていたけれど、ほかにどうしようもない。その固く尖(とが)ったペン先は、私が拳(こぶし)を固めるよりは多少の脅威をもつのではないか。

「動かんで!」

 その言葉に反応して、彼はゆっくりとこちらを振り返った。

 けれど、そこには相変わらず虚無の色があるだけで、逃げる気も、こちらに反旗を翻(ひるがえ)す気もないようだった。

 彼はただぼんやりとこちらのペン先を見ていた。

「動いてないよ」

 きれいな標準語だった。

「……さっきうちの首を絞めたの、わかっちょるんよ」

「そうだったね」

 あまりに落ち着き払った態度に、自分のほうがおかしなことをしているような変な気分になる。

「警察に通報するけぇ」

「いいよ」

「え……?」

「通報。構わないよ」

 戸惑った。それだけは勘弁してくれと言うとか、そうでなければこっちに攻撃を仕掛けてくるのではと思ったのだ。そして、そうなればちゆうちよせずに発信を押して警察にすべてを委ねようと思っていたし、それ以外の可能性なんて検討すらしていなかったのだ。

「……変態なん?」

「君がそう思うんならそうかな。変態」

 世の中にかくも爽やかな変態自認の瞬間があろうか。まるで大人になっても卵焼きが好きだとバレたときみたいに、彼は微かな笑みを浮かべてすらいた。

「自分でもどうしてやったのかわからないんだ」

「どういうこと?」

「だから……なんで君の首を絞めたのかがよくわからない」

「……変態じゃけぇ。ほかに理由なんてないっちゃ」

「かもね。僕は変態で、だから君の首を絞めたんだろう。同じことを警察でも言うことにするよ」

 面倒な任務に重たい腰を上げるようなぞんざいな言い方だった。

「これまでにも似たようなことしてきちょったん?」

「……覚えてないな」

「せぇでも、やっちょらんとは断言でけんのじゃろ?」

「もういいじゃん。早く通報しなよ」

 私はスマホをポケットにしまった。クラリスが銃をしまうみたいに。

 いま思い返しても、自分がどうしてあそこで通報しなかったのかがよくわからない。神にでもなったつもりだったのか。たぶん、そうなのだろう。私はあのとき、彼の命運を手中に収めていた。さっきまで自分の命を脅かしていた男が、ことのほか毒気も覇気もないごく普通の草食系男子に見えたことが、私にある種の勝利の感覚をもたらしたものと思われた。

 とはいえ、相変わらずペン先は向けたままだった。

「行って。ほいで二度とこねぇなことせんで。もしもこの街や近うの街で似たことがありゃあ、うちは今度こそ通報するけぇ」

「……わかった。気を付けるよ」

 気を付けるよ? なんて間抜けな返事だろう。ごめんね、気を付けてね。幼稚園のときに、諍(いさか)いが起こったときに決まりきったように先生が互いにそう言わせたものだ。まるであの園児の定型文の延長にあるような返答だった。

「待ってぇや。信用でけん。名前言うて」

「名前?」

「噓言うてもすぐにわかる。ほいじゃけぇ、ほんまの名前」

「……疑り深いんだね」

「犯罪者を疑わん人間はアホっちゃ」

「犯罪者か……そうかもね。いいよ。マミヤヒロアキ。君は?」

「言う必要ある?」

「好きにしたらいいよ」

「……美谷千尋。千に尋ねるで、千尋。あんた、いくつ?」

「二十歳」

「仕事は?」

「地元の大学の学生だよ。今は二年の夏休み。君が警察に通報したら、僕は退学することになるのかな」

 まるで他人ごとのようにヒロアキは言った。

「通報はせん。あんたが二度とせんて誓うなら」

「……よくわからないけど、通報するのが市民としての義務なんじゃないのかな? そういう義務は果たしたほうがいいと思うよ」

「二度とせんて誓えにゃぁ、今通報するっちゃ」

「……だから、べつにいいよ、今通報してくれても」

 不毛な言い争いだ。この男には警察を恐れる気持ちがまるでない。むしろ放っておけばこのまま自首しかねないところがあった。

 とてもおかしな話だが、マミヤヒロアキはまともだった。まともな人間が私の首を絞め、その後でこうして私と会話をしているのだ。

 騙されちゃダメよ。現実に彼がしたことは異常そのもの。彼は反省の弁を口に出さないことで、これまでも幾多の犯罪を捕まらずに済ませてきたとも考えられる。

「二度とせんで。ええね? うち以外の人にもよ」

「気を付けるってば」

「……往んで」

「動いていいってこと?」

 こちらをからかっている気配はない。純粋に気になっていることを聞いたという感じだった。

「ほうじゃ」

 ヒロアキは首を傾げながら動き出した。が、その動きはこちらの神経を逆撫でするようにゆったりしていた。

「早う行きさん!」

 その言葉にも応じずに、彼は静かに歩いていた。まるで、もはやこちらの言葉なんか耳に届いていないか、そもそも存在すらしていないとでもいうかのように。

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