1 二〇一八年 首絞めヒロ 3


「あの、お水だけで、ほんとに」

 図書館脇にある喫茶店〈ビブリ〉で、私がメニューを見せると、今道奈央は頑(かたく)なに首を横に振った。たぶんお金がないのだろう。

「お店に入ったら、一人一品は頼むものよ。心配しないで。ここは私の奢(おご)りだから」

「……いいんですか」

「もちろん。お茶に誘ったのは私だもの」

「じゃあ……ココア」

 私は頷いてからマスターを呼び、ココアと珈琲を頼んだ。

 店内にはビル・エバンス・トリオの名盤がかかっている。彼らの演奏を聴くと、ベースのスコット・ラファロがなぜ交通事故なんかで死ななくてはならなかったのかを考えずにはいられない。唐突な死に見舞われたミュージシャンは私に語りかける。深淵(しんえん)に耳を傾けろ。この音楽に対して君がそうするように。それは、志村の声が私に語りかけるものでもある。

「何があったかはもう聞こうとは思わないわ。ただ、教えてほしいの。あなたは、死のうとしてる。違う?」

「……はい。死のうと思っています」

 思いがけないほどあっさりと彼女は認めた。むしろ、それを指摘されたことを喜んでいるようですらあった。

「やめる気はないのね?」

「……はい」

「でも、今日私に相談に来た。誰かに止めてほしかったんじゃない?」

 彼女ははっきりと首を横に振った。これまでの彼女の反応のなかで、もっともはっきりとした意志を感じた瞬間だった。

「知りたかったんです。死んではいけない理由って何だろうって」

 その質問を繰り出す者は多い。とりわけ、多感な十代には死にたい願望は強弱はあるけれど、非常に多いのだ。

 こう尋ねる者は、死を固く決意している。だが、何かに後ろ髪を引かれているのも確かなのだろう。

「死んではいけない理由は、ないわ」

「……ないんですか?」

「そう。誰かに止められた?」

 彼女は首を横に振った。

「でも、よくいろんなところに死んではいけないって……」

「書いてあるわね。周りの人が悲しむとか、死体の事後処理が面倒だとか、地獄に落ちるとか……でもどれも、死ぬ人には関係ないわよね。あ、地獄は関係あるか。でも、あるかわからないものね」

 奈央は初めて笑った。

「死んではいけないとは、私も思わないわ。現状、あなたの前にどんな悩みがあるのかはわからないけれど、でも、死んでみるのが一番いい解決に思えるのよね。つまり生きていたら解決しない、と」

「……そうです」

 そこでココアと珈琲が運ばれて来る。

「おいしそう。私もココアにすればよかったわ」

「え、交換します?」

「冗談よ。飲んで」

 彼女は言われるままにココアに口をつける。上に載っているクリームばかりが口に入っているようだが、それでも奈央は満足したようだった。

「……おいしい」

「この店のココアは評判がいいの。でも、あなたが昨日死んでいたら、これは飲めなかったわね」

「…………」

「死んでみるのもいいけど、他にも方法がないかもう少し考えてみない? たとえば、毎日ここに来てココアを飲むとか」

 揺れているのがわかった。

 死にたくて仕方がない人間なんていない。みんな、生きるのが苦しいのだ。そして、死ぬ以外に選択肢がないような気がする。

 もう一押し、と思ったとき、奈央から思いがけない言葉が飛び出した。

「でも約束してるんです」

「約束?」

 奈央は頷いた。それから鞄の横ポケットからスマホを取り出して操作し始めた。

「この人……」

 それはツイッターの画面だった。アカウント名は〈首絞めヒロ〉。画像は、ロープの写真。プロフィール欄に、ホームページのURLがある。

 ツイート自体は素っ気ないものが多い。

〈今日も晴れた〉とか〈洗濯物が多い〉とか本当に一言だけのつぶやきばかり。〈いいね〉も〈リツイート〉もされていない。フォロワー数とフォロー数がだいたい同数なのは、フォローされたらフォローし返す形式だからだろうか。

「この人が、一緒に死のうって言ってるの?」

「死のうっていうか、この人が苦しまずに死ねる方法を知ってるんです。方法も具体的に教えてくれました。だから、たぶん本当に苦しまずに死ねるんだと思います」

「そうなの……」

 犯罪の匂いがしてきた。集団自殺を恐れていたのだが、それよりもっと悪い。このアカウントの主は、自殺志願者をたぶらかして殺しの材料にしようとしているのだ。

 だが、ここでこちらが警戒していることがバレると、奈央は心を閉ざしてしまう。あくまで理解を示しているふうを装わねばならない。

「その人と、具体的な日にちを約束してるの?」

「具体的には、まだ……」

「そう。ねえ、じゃあまだ具体的な日にちは決めないでくれない? 今度はもっと美味しい店でお話を聞きたいの。甘いものは好きでしょ?」

「そうですけど……」

「ね? 連絡先を教えて。来週中に連絡するわ」

「……わかりました」

 どうにか、早まった行動だけは防ぐことができた。けれど、心中は穏やかではなかった。

 奈央と別れ、江古田にある自宅に戻ってからも気持ちが落ち着かなかった。

 窓の外に目をやる。いつもベランダよりやや下方に、隣の家の屋根の風見鶏が見える。錆びついているのか、よほどの強風が吹かないかぎりは回ることがない。いつも同じ向き。自分の心のほうが、落ち着きがないようだ。

 それは単に奈央が死を決意していることを知ってしまったからでも、その可能性がまだ残されているからでもない。

〈首絞めヒロ〉。

 その不吉なアカウント名が頭に残っている。

 人の自殺願望を弄(もてあそ)ぶ者がいる。安楽死の三文字をちらつかせて言いより、どうせ自分で捨てようとした命だからと、奪う気でいるのだ。

 スマホのiTunesのライブラリに入っているジェイムス・ブレイクの最新アルバムをかけた。壊れかけた音が、ループによって一つのグルーヴを創り出す。人間の壊れかけた心も、こんな風につないでいけるはず。私がそうだ。

 私の心はとっくの昔に壊れている。それでも壊れたまま、どうにか毎日というルーティンをこなしている。

 奈央にだって、そんな風に絶望の切り貼りをどうにか回転させていくことはできるはず。いや、奈央だけではない。どんな心の病だって、死から逃れる方法はあるはずなのだ。

 だが、そこに〈首絞めヒロ〉のような存在が現れて、死神の鎌を振り下ろす。

 私は起き上がると、レノボのノートブックパソコンを立ち上げた。ツイッターのアカウントなら、持っている。最近、フォロワーが一万人を超えた。昨年出版した本がわりと売れたのと、毎日発信しているカウンセリングの言葉や、心を病んだ人への励ましの意味を込めた青空の写真が功を奏している結果だ。

 検索のところで、〈首絞めヒロ〉と入れてみた。

 例のアカウントが真っ先に表示される。クリックすると、縄の束を握りしめた手のアカウント画像が現れた。

 一時間前に最新のツイートがある。


〈準備は整ったよ。安心してね〉


 すぐに〈いいね〉がつく。

 アカウント名は、〈ナオナオ〉。奈央だろうか。

 落ち着こう。まだ、何かが起こったわけではないのだ。何の〈準備〉かもわかっていない。

 私は〈首絞めヒロ〉のプロフィール欄に貼られたURLをクリックしてみた。すぐに真っ黒な画面のサイトに飛ぶ。サイト名は〈首絞めヒロの芝居小屋〉。中央に管理者紹介が載っている。


〈こんにちは、首絞めヒロです。こんな名前、怖い? 誤解しないでくださいね。絞めるのは自分の首です。いつも死にたくなると自分の首を絞める。でも、意識を失ってしまうので死ねません。こんな間抜けなやり方で死のうとする僕はたぶん本当は死にたくないのでしょう。皆さんはどうですか? 間抜けな死に方を考えてませんか? 僕は死ぬ気がないので自分の首を絞めるだけですが、もし皆さんが本気で死にたいのなら、僕にはいつでも苦しまない方法でそれをお手伝いする用意があります。都内の方、まずはご相談ください。「死にたい」三回、首絞めヒロ参上です〉


 最後のは薬品のコマーシャルのパロディのつもりか。語呂が良くない。

 右側に、『青天井の遊歩者』というタグがあった。何だろう、とクリックしてみたが、自作の小説らしかった。内容は、江戸川乱歩を露悪的に模倣したような文体で書かれたエログロなもの。人の靴下に興奮を示す男が、ネット空間を彷徨(さまよ)いながら、性癖のマッチする人を探している小説。

 電話が鳴った。同僚の希世乃からだった。半年ほど前に、神経症を病んで退職した女性の穴埋め要員として新たに入った心理カウンセラーだ。

「どうしたの?」

「あの、ちょっと相談したいことがあって……」

 いつも少し溜めを作って話す。こっちが話題に食らいつかないと、そのまま言いやめてしまうこともよくある。引っ込み思案なところがあるのだ。これでよくカウンセラーが務まるものだが、存外優秀であると聞いている。

「シフトのこと?」

「そうなんです!」

 そんなに声を弾ませる話題でもなかろうに。でも、どこか憎めない子ではある。

「土曜午前の出勤を替わってもらえないかと思いまして……」

「明日じゃない……んん、ちょっと考えさせて」

 すぐに返答してもよかったが、せっかくの休日を返上するのはやっぱりそれなりに気分が落ち込む決断ではある。

「わかりました。あ、今度、お寿司でも行きませんか? 千尋さんとは音楽の趣味が合いそうですし!」

「はいはい、今度ね」

 電話を切った。以前、iTunesのライブラリをうっかり見られたのを思い出した。あの子もフジファブリックが好きなのだ。

 こんな気分の悪くなるサイトを見ている時でなければ、もう少し優しい対応をしてやれたのかな、と思いつつ、すぐにそのページを閉じて悪趣味なその内容ごと記憶から消し去ろうとした。

 だが、何かが引っかかる。

 考えるうちに、それが気のせいではないことがはっきりしてくる。

『青天井の遊歩者』というタイトルに覚えがあったのだ。いや、タイトルだけではない。内容も、以前読んだものとはだいぶ違うけれど、骨格が似ている。どこで読んだのかも、すぐに思い出した。

 忘れるわけがないのだ。私の第ゼロ号の「患者」の書いたものなのだから。一見印象が違ったのは、前に読んだものは性癖までは細かく描かれていなかったからだ。

 なぜアイツの小説がここに?

 アイツ──ヒロアキがサイトを運営しているということ?

 ヒロアキ、首絞めヒロ。ありふれた名前だから、ただの偶然だと片づけることもできる。でも小説はどう? たまたま〈ヒロ〉と名の付く人が、ヒロアキが書いていたのと同じタイトルで、似た内容の小説をサイトに載せたなんてことが考えられるだろうか?

 あるわけがない。

 これは、まぎれもない、ヒロアキのサイトなのだ。

 全身の毛が針みたいに硬く立ち上がる気がした。

 落ち着いて。落ち着いて。

 今は夜の十一時。奈央はこれから眠るはずだし、〈首絞めヒロ〉だって夜のあいだは眠っているだろう。考える時間は十分にある。

 私の記憶は八年前へ向かう。

 思い出そう。ヒロアキとの出会いを。

 すべてはそこから始まっているはずなのだから。

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