1 二〇一八年 首絞めヒロ 2


「お座りください」

 彼女はちらちらと私の顔を確認しながら、遠慮がちに数度頭を下げて、着席した。

 年齢は十五から十七といったところか。本来なら高校に通っている年齢だろう。今はまだ七月の半ば。平日。終業式を迎えた高校はまだないし、五時近いとはいえ、女子が私服に着替えて図書館に現れるのは時間的にかなり厳しいものがある。

 私はにこやかな笑みを浮かべて彼女が椅子に馴染むまでを静かに見守りつつ、改めて彼女の服装をチェックする。ひらひらとしたスカート、妙に生真面目な印象を抱かせる水色のブラウス。この二つがどうにもミスマッチに感じられるせいか、年齢より精神的に幼いような印象を受ける。小学生の頃着ていた服装の延長線上で服を選んだ結果、身体の成長とちぐはぐになってしまったといった感じだ。

「はじめまして。私はカウンセラーの美谷千尋(ちひろ)といいます。よろしくね。かわいいわね、お洋服」

 はじめから用件にすぐに入らないほうがいい。これはカウンセリングのやり方の一つ。まずは服装を褒める。容姿を褒めないのは、人によって自分の容姿に不満を持っている者もいるから。でも、服は自分をよく見せるために選ぶものであり、服を褒められることをいやがる人はあまりいない。

 案の定、彼女はわずかにはにかみつつも嬉しそうな顔になった。

「109で買ったんです、このあいだ」

 その言葉には「109で買った」という事実以上に、「109まで自分はショッピングに行くことができた」という喜びが感じられた。いつも閉じこもってばかりいるわけではないと誇示しているのでもあろうし、裏を返せば滅多に外出しないということでもある。

「109かぁ。最近行ってないな。だいぶ変わったんでしょうね」

「駅とつながってるから、日焼けせずに行けますよ」

 この時期ならではの特殊な情報を持ち出してくる。会話のチョイスに奇妙な印象を受けた。だが、診断は私の役割ではない。私の任務は、悩みに耳を傾けることだ。

「お名前を伺ってもいいかしら? 匿名でも構わないけれど」

「今道奈央です」

「いまみちなおさんね」

 診察料ももらわないカウンセリングだから、原則漢字を聞いたりもしないが、彼女はわざわざペンをとり、漢字を教えてくれた。だが、それ以降は黙ってしまって用件を切り出そうとしなかった。こういう時は、こっちから水を向けるしかない。

「学校は、今日はお休みなの?」

 首を横に振る。

「行きたくない理由があるのかな?」

 今度は黙る。

 何かしゃべりたいことがあってここへ来たはずだ。

「本は好き?」

 話題を変えてみた。遠回りなようだが、話題を転がしながら寄せては返す波のように進めていくしかない。

「はい」

「どんな本を読むの?」

「どんな……」

 彼女は首を傾げる。

「ミステリは好き?」

 首を横に振る。

「ファンタジー? ホラー?」

「……キングが好きです」

「ああ、ホラー小説が好きなのね」

 だが、私の確認には首をかしげる。ジャンルには詳しくないか、小説をジャンル分けすること自体を好まないのか。あるいは、スティーヴン・キングの小説をそれだけ神聖視しているのか。

 この手の話題では、ジャンルで括(くく)る人間のほうが絶対的多数だが、彼女はそうではないらしい。カテゴライズは人間が「生きやすいように」物事を簡便化するために行なうもの。それをしない人間は、純粋であり、生きづらい。

「キングのどんなところが好き?」

「どんな……悲しい、ところが。あと、痛いところが」

「痛い?」

「キングの小説を読むと、ずっと痛い感じがするんです。でも、読み終えると、いまの自分をそれほど苦しく考えなくて済みます。ほんの、つかの間ですけど」

「なるほど。つまり、あなたは何か大きな問題を抱えているのね。それで苦しくて、心が痛いんでしょう?」

 フィクションの中で痛みを求めるのは、自傷行為の半歩手前だ。読書の傾向だけで留まってくれるなら、ありがたい話だ。むしろ、あらゆる自殺志願者に痛みを伴うフィクションの享受を義務付けたらいいのかも知れない。

 だが、ことはそれほど単純ではない。心は思いがけない形で悪化しやすいのだ。明日にも退院という患者が、病室で自殺に踏み切った事例を何度か聞いたことがある。治る前も、治ってからも、人の心にはよくわからない領域が残る。

 また、長い沈黙が続いていた。

 当たりさわりのない質問には、彼女ははっきりと答えることができるが、それ以外の質問になると、途端に口ごもってしまうのだ。

「学校でいじめがあった?」

 首を横に振る。原因はいじめではないようだ。

「でも嫌なことがあったのね?」

 今度は静かに頷(うなず)いた。

「その内容は言いたくない?」

 黙る。

 言いたくないわけではないのだ。言いたくなければ、ここへ来るはずがない。何か話したいことがある。そして、それは、学校での嫌な出来事と関係があるはず。

「私も学校ではいっぱい嫌なことがあったわ。親友が私の恋人を奪ったの。私がそのことに気づいたのは、何日も経ってからのことだったわ。恋人から君の親友と付き合っているから別れてくれと言われたときは落ち込んだわね。裏切られたことがショックだったんじゃなくて、そのことに気づかず接していた時間があったことを思うと、誰も信用できないような気分になったのね」

 話した内容は実話だった。高校二年の秋には、そんな出来事があった。今では笑って話せるが、当時はとてもそんな心境ではなかった。そして、唯一の救いだったバンドのヴォーカルは、その一か月後に逝ってしまった。

 彼女が顔を上げて、初めて私の目を見ていた。

 いい傾向だ。心を開くきっかけになったのかも知れない。

「学校って、嫌なことがあるわよね。だって、他人同士が狭い空間にいるんだもの。思いもしないことが起こるに決まっているわ。それなのに、学校の先生は何も気づいていないふりをする。それで、私が学校を休んだら、早く出てきなさいって」

「どうしたんですか、それで」

「行かなかったわ。私の心を苦しめる場所には、どんな理由であっても行きたくなかったし、今でもその判断は正しかったと思ってる」

 奈央の気を引くために切り出した過去の話だが、思いがけずその時の状況がよみがえってくる。

 昼間に起きたとき、窓から差し込む光に舞っていた塵芥(じんかい)を、妙にくっきりと覚えている。自分の存在の儚(はかな)さを考えていた証拠だろう。

 そうして、翌夏の出会いが、現在の職業を選択するきっかけとなった。正確にはその前に一冊の本との出会いがあったのだけれど。

「学校に戻りたいと思う?」

「わかりません……」

 さっきまでなら、わからない時には口籠っていた。いい傾向だ。

「学校に行かない今の状態が好き?」

 首を横に振った。

「学校に行かないことへの罪悪感があるのね。でも戻りたいかと言えば、そうでもない。戻っても解決できない問題が待っているのかしら?」

 今度は、浅くだが、頷いたようだった。

「それはあなた一人では解決できない問題なのね?」

 もう少し強く、深く頷く。

「友だちに、裏切られたの?」

「……ある意味では」

 それ以上の詮索(せんさく)は避けるように、口をぎゅっと噤(つぐ)む。

「友だちと仲直りできたらいいと思う?」

 彼女は首を傾げた。その時の顔が、いまにも泣き出しそうに見えた。仲直りをしたい気持ちがあっても、どうにもならないような裏切りに遭ったのだろう。

 だが、私の仕事は、その内容を把握することではない。現在の彼女の心を軽くすることだ。多くのカウンセラーは、悩みの原因を過去へと遡及(そきゅう)するが、原因が発見できたからと言って解決できるものでもない。

「いまのあなたは充電期間なの。だから、高校に戻らなくちゃ、とかそういうことを考える必要はないのよ。スマホのバッテリー残量がゼロになったらどうする?」

「充電器にさす……」

「でしょ? 百パーセントになってないのに充電器から抜いたりしていたら、電池の消耗が早くなるのよ。だから充電は百パーセントになるまで待ってから抜かなくちゃ」

 奈央は微(かす)かに明るい表情になる。

「それに大学や社会に出れば、いまの世界なんてちっぽけで二度と戻る必要のない場所だとわかるわ。私がそうよ。その頃の親友とは、その後一度も顔を合わせていない。彼女がどんなふうに生きているのかも知らないし、たとえ知っても何も感じないと思う」

「彼女が不幸になってたらいいのにって思いませんか?」

「思わないわね。世の中、正義が勝つとか、そういうわかりやすいふうには出来ていないもの。それに、素敵な人が世の中にはたくさんいることも知っている。たまたま出会ってしまった醜い心の人のために何かを考える時間がもったいないじゃない?」

「……でも負けた気がします」

「そうね。気持ちはわかるわ。誰だってそう思うものよ」まずは共感を示す。「蚊に嚙まれたと考えるのよ。蚊が憎らしい。蚊を叩ければいいのに、とも思う。でも蚊を殺しても痒さは消えないし、蚊を叩かなかったからといって、その後の人生であなたが蚊に負けたなんてことにはならないと思わない?」

「頭ではわかるんですけど……なかなかそううまくもいかなくて」

 その後も奈央は長々と会話を続けた。けれど、結局、彼女が学校で何があったのかを明かすことはなかった。わずかに変化が見えたのは、会話を終わらせる間際になってからのことだ。

「あの……私と話して退屈しませんでしたか?」

「どうして? 楽しかったわよ。また喋りたいわ」

「……本当ですか?」

「噓は言わない」

 なぜか、彼女は涙ぐんでいた。

 その段階になって、ようやく私は、原因は学校だけにあるわけではなさそうだというところに考えが至った。

「また、来てもいいですか?」

「もちろん。来週のこの時間も、ここにいるわ。あと、土曜日も隔週で来てるから」

「……来週……来週は来られるかわかりません。その先も」

 いやな予感がした。自分の想定より、彼女が悪い状況にあるという漠然とした感触。まるで、汚染ガスの中に足を踏み入れてしまったような、のっぴきならない感じだ。

 時計を見る。すでに五時十五分。退館時間を過ぎている。

「よかったら、これから一緒にお茶でも飲みに行かない? ここは閉まってしまうけど、私の予定は空いているから」

 奈央はその提案にふたたび口ごもったが、困っているのではなく、喜んでいるふうが見られた。

「お茶、付き合ってくれる?」

 奈央は、静かに頷いた。

 私は書類を整理すると、ちょっと待っててね、と言って立ち上がった。この仕事は不思議だ。ただの与太話をしていたはずが、いつの間にか相手の真後ろに死の淵が迫っているのが見えるときがある。

 赤い陽光が、室内で律儀に同じ姿勢を保っている奈央の背中を照らした。陽光に照らされる身体があるうちに、何とかしなければならない。

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