第2話 東京 八月七日
夏休みのとある日の午後、私たちは学校からの帰り道を歩いていた。昼前に一瞬だけ降ったスコールのような雨は水蒸気になってゆっくりと空に向かい、アスファルトの熱が湿り気を帯びた空気を揺らしている。焼けるような暑さのせいで風は重く、ところどころに残った水たまりは道路の汗のようにぬるかった。痛いくらいの太陽の反射、街路樹を覆いつくすかのようなセミの鳴き声、透明な青空に浮かんだ白い雲。それはカタログに載っている全ての夏の日をかき集めたかのような午後だった。
孝之は私の二歩ほど前を、ポケットに手を突っ込みながらゆっくりと歩いていた。短く刈られた髪の毛が湿っぽい風に無造作に揺られ、首筋が汗でうっすらと覆われている。半そでのワイシャツから、ほっそりとした二の腕が半分ほど見えた。いつも体育館に籠ってばかりだから、夏だというのに彼の腕は陶磁器のように白い。
「今度、夏子たちがまた海行こうって言ってたよ」
「去年と同じところ?」
私の呼びかけに、彼は振り返らずに答えた。
「そうみたい。孝之も行く?」
「どうしようかな……。人混みが多いのはあんま好きじゃないんだよね。去年江の島行った時も、見渡す限り人ばかりであんまり海行ったって感じがしなかったし……」
「じゃあ何で行ったのさ?」
「高校生になったから、少しそういうのも良いかなって思って行ってみたんだけどね。やっぱあんま人混みは好きになれなかったな。できればもう少し空いているところが良いよ」
「おじいちゃんみたいだね」
「おじいちゃん言うなよ」
孝之は笑いながら私の方に振り返ってきた。優しげな瞳が嬉しそうに細められ、口元からは綺麗に生えそろった白い歯が覗いていた。
私は少し歩くスピードを速め、彼の右隣に並ぶ。
「じゃあ孝之は人のいないビーチなら良いの?」
「そりゃそういうところがあれば最高だけどさ、夏休みはどこに行っても混んでるだろ?」
「オーストラリアのビーチは人が少ないみたいよ?」
「何でオーストラリア?」
「夏子が言ってたよ。家族旅行で去年行ったんだってさ」
「あのお嬢様と同じことを要求するなよ。そもそも南半球は今冬だぞ?」
「ま、どっちにしても私まだパスポートも持ってないしね」
「俺もだ。飛行機すら乗ったこと無いよ」
そう言って自嘲気味に笑う彼の横顔を見上げながら、私は左手をそっと彼の右手に沿えた。彼は私の手を優しく包み込んでくれる。
道路には車はおろか自転車すらいなかった。まるで世界中の人間が一斉に消えてしまったかのような夏の日の午後。二階建ての住宅から漏れる昼のバラエティ番組の笑い声、遠くを走るトラックの振動、ベランダに干された洗濯物のはためき。そういった生活感に溢れた音が私たちを包んでいるのに、この道には誰の姿も見えない。それは現実世界からほんの少しだけ
「加奈子は海外でどこか行きたいところはある?」
「うーん……綺麗なビーチは見てみたいよね。オーストラリアもだけど、タヒチとか有名じゃん?」
「俺も名前くらいは聞いたことあるな。あとモルディブとか?」
「モルディブね。どこにあるのかよく分からないけど聞いたことあるよ。島の名前だっけ?」
「国だよ。親父が昔一度だけ仕事の関係で行ったことがあるって言ってたな」
「へぇ。孝之のお父さんって銀行員だったっけ?」
「そう。何でモルディブ行ったのかは知らないけど、結構出張でいろんなところ行ってるらしいよ」
「そういうのいいかもね。海外で仕事をするとか面白そうじゃん?」
「確かに格好いいいけど、俺は英語できないから無理かな」
「孝之は勉強しないだけでしょ。頭の回転悪くないんだし、ちゃんとやれば成績伸びると思うよ?」
「はいはいそうですね。優等生の加奈子さんは毎回のテストも全力で勉強してますからね」
「別に嫌味で言ったわけじゃないし……。そもそも来年は受験でしょ? 孝之は大学どうするの?」
「まだ全く考えていない。特にやりたいことも無いしね。文系だから、法学部とか経済学部とかそういうところをチラッと見たりはしているけど、いまいちピンと来なくて。加奈子は?」
「私も特に希望する大学とか無いんだよね。学部は文学部が良いかなって思っているんだけど」
「文学部って就職不利って聞いたけど、どうなのかね?」
「うーん、正直あんまり就職のことまで考えられないんだよね。自分が大学生になった時のイメージすら湧かないし」
「まぁそりゃそうだな」
彼は黙ったまま何かを
私にとって、そして彼にとっても、大人になるということはあまりにも遠い、それこそモルディブのビーチのような非現実的な場所だった。大人とは、断絶した壁の向こう側に住む私たちとは違った人間であり、その世界はまるで異世界のように私たちの全く知らない仕組みで動いている。私たちはその世界にたどり着くまでに、いくつもの壁を乗り越えなければならない。そして少なくとも目の前に立ちはだかる直近の壁は、まぎれもなく大学受験であった。それはまるで無慈悲に世界を分断したベルリンの壁のように、避けることのできない障害として私たちの目の前に横たわっていた。
「大学入ったらさ、一緒にオーストラリア行ってみない?」
「いいけど、俺そんなに英語得意じゃないから加奈子に任せっきりだよ?」
「大丈夫でしょ。ハローとサンキューとハウマッチくらい言えれば何とかなると思うよ」
「まぁ、そういうならいいけど。まずは現役で受からないとな」
「私はこのままいけば指定校推薦とれそうだから、問題は孝之だね」
「おいマジかよ、やっぱ予備校通うかね……」
何の変哲もない、高校生カップルの会話。けれど私は、この時の会話を一語一語だって思い出すことができた。別にその日に何か特別なことがあったわけではない。むしろ特別な日は他にたくさんあった。クリスマスには遠くにそびえたつ新宿の明かりを眺めながらいつまでも語り合ったし、秋の夕暮れには足が痛くなるまで公園を散策した。高校最後の夏には花火を見ながらキスをしたし、卒業式の日には校舎の裏でひっそりと彼が抱きしめてくれた。思い出そうと思えば数えきれないくらいの想い出があふれ出て来るけれど、やはり一番鮮明に孝之と私を繋ぐ記憶は、この夏の日の午後のこと。平凡と日常と平穏をゆっくりとかきまぜて出来上がった水晶玉の中にあるミニチュアのような、ごくありふれた夏の日。
それはきっと、どこにでもある風鈴のささやきが夏という時間のメタファーであるように、なんでもない出来事こそが、その
私たちはごく平均的な、本当にどこにでもいるような高校生のカップルだったと思う。だから平均的な若者によくあるように、私たちはその先に広がる人生が無限にも等しいくらい長いものだと信じて疑わなかったし、自分たちが大人になるなんてこれっぽっちも思っていなかった。まるでエッシャーのだまし絵のように、今日の次に今日が現れる。箱庭のように完結した世界で、安全な円環が繰り返される。当時はそんな根拠のない幻想の中で生きていたのだ。
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