ワイン

まいけ

第1話 ロンドン 十二月二十一日

「もしかして、加奈子?」


 驚きでコインを落としそうになった。それは久しぶりに日本語を耳にしたからというだけではなく、その声がとても懐かしい響きを含んでいたからかもしれない。


「……孝之……? 何してるの?」


 溺れかけの子どもみたいな声を出しながら、横に立つ彼の顔を見上げた。無造作なストレートヘアーとシャープな顔の輪郭は昔と変わらないが、銀縁のメガネがクールな肉食獣みたいな雰囲気を醸し出している。少しひ弱なイメージのあった体の線も良い具合に逞しくなっており、オーダーと思われる濃紺のスーツと綺麗に磨かれた靴が良く似合っていた。汐留あたりの仕事のできる営業マンを切り取ってきて少し上品に加工したら、まさにこんな感じだろうか。


「いや、仕事の打ち上げでさ。加奈子こそ何しているの?」


「一言で言えば、旅行中ってとこかな? 仕事辞めていろんなところ旅してるんだ。それで、今日はたまたま知り合ったドイツ人の女の子とここに来てて」


「Can I help you?」


 カウンター越しに店員が孝之にオーダーを訊いてきた。彼は慣れた感じで注文をし、財布からカードを取り出す。


「せっかくだから、ちょっと話さない? それともすぐ戻らなきゃいけない?」


「数分くらいなら大丈夫だよ。孝之こそいいの? 仕事で来ているんでしょ?」


「いや、もうクライアントは帰ったから大丈夫。男三人で飲んでるだけだし、ちょっとくらい抜けたって問題ないよ」


 彼がサングリアを受け取ったあと、私たちは窓際のスタンディングテーブルの前に場所を移してひっそり乾杯した。ビールに口をつけると、甘いホップの香りが喉の奥に広がる。


「仕事は何しているの?」


 私は彼の少し疲れたような横顔を見ながら、思いつく限りもっとも無難な言葉をかけた。年末の金曜日ということもあり、店の中は笑い声だか叫び声だか演説だか分からないような騒音であふれかえっている。そのうえステージではサンタの格好をしたバンドが「ヘイ・ジュード」を演奏しているとあって、自然と声は大きくなった。


「銀行の駐在だよ。いわゆる法人営業で、こっちに進出してきた日本企業に融資したり、諸々の相談にのったりっていう感じかな」


 そういえば彼の父親も銀行員だったような気がする。とっくの昔に閉じられた思い出のアルバムから、徐々に記憶が染み出してきた。

 学校帰り、私たちはよくファストフードのチェーンで飽きることなく語り合った。百円のコーヒーを頼んでカウンター席に並んで座りながら、いつまでも下北沢の人混みを眺めていた。他方で今では、四ポンドのビールとサングリアを片手にロンドンのパブで話し込んでいる。


「駐在ってことはこっちに住んでるんだよね? 日本離れてからどのくらいたつの?」


「住んでいるのはスペインなんだよね。赴任が今年の六月だったから、ちょうど半年くらいかな。今日はたまたまロンドンに来る用事があってさ」


「そうなんだ。仕事面白い?」


「学ぶことは多いよ。けど所詮は日本企業の一支店だから、今までの仕事の延長線上って感じかな……。加奈子はどんな感じ?」


 どんな感じ? 曖昧で不安定で難しい言葉。まだ久しぶりすぎて距離感もつかめない中、私は探り探り答える。


「まあまあかな。大学出てからメーカーで事務やってたんだけど、今年の秋に会社辞めたんだ。特に理由は無かったんだけどね、何となく旅したくなって」


 半分本当で半分嘘だった。会社を辞めたのは事実だけれど、理由が無かったわけじゃない。けれどその理由は形の無いかすみのようなもので、今の私はそれを言葉で手短に表すことができなかった。それに家族や友人ならまだしも、心の準備も無しに会った昔の恋人に、この曖昧模糊とした感情をどうやって説明できようか。


「結構思い切ったことするね……。周りには反対されなかったの?」


「うちの親は放任主義だからね、特に何も言わなかったな。若いうちにそういう経験も必要かも、って快く送り出してくれたよ。まだ貯金もあるし、あと半年くらいはいろいろ見て回ろうかと思っている」


「そうなんだ。ロンドンにはいつまでいるの?」


 サングリアに口をつけながら孝之が訊いてくる。よく見ると、彼の左手の薬指には指輪が光っていた。


「今のところ、一月中旬の予定かな。」


「今はどこに泊まっているの?」


「ウィンブルドンの方に安いフラット見つけたから、今はそこを拠点に色々見て回っている。このあたりも一通り見終わったし、あとは適当にスコットランドとか回ってみようかなと。孝之はスペインのどこにいるの?」


「マドリード。思ったより住みやすくて居心地が良いよ」


「家族と一緒に?」


「……うん」


 何か間違ったものを飲み込んだような顔をしながら、孝之は窓の外を行き交う人混みに目線を逸らした。少し曇ったガラスの外では、陽気な家族連れやパーティー気分の若者達が幸せそうに歩いている。見えないくらい細い雨が降っているようけれど、それでもクリスマス直前のオックスフォードストリートは年末の高揚感であふれていた。


 私たちの間には沈黙が流れる。


「孝之は年末年始、日本に帰るの?」


「妻は年明けに一か月くらい帰る予定だけど、俺は残るかな」


「子どもは?」


「まだいない。俺は欲しいんだけどね。うちの奥さんはあんまりみたいで」


 また沈黙。


 勢いあまって二人で話し始めたのはいいけれど、ありきたりな近況報告をした後に何を続ければよいかが分からなかった。それは当たり前のことで、私たちの関係はとっくに終わっていたのだから、共通の話題なんてそう簡単に出てくるものでもない。何となく間を持たせるため、ビールに口をつけた。


「加奈子は一月にイギリスを出てどこに行くの?」


「スペイン行きの航空券を持っているから一度そっちに行って、そこからヨーロッパを巡ろうかなと思っている」


「スペインのどこに?」


「ビルバオ。グッゲンハイム美術館を見たいと思ってね。そこからのことはあんま考えてないな。とりあえず陸路でフランス方向へ行こうと思っているくらい」


「ビルバオか。良いところだよ。バスク地方だからマドリードとはまた違って独特の文化でね。食事は美味しいし、街並みは綺麗だし」


「行ったことある?」


「一度だけ。仕事でね」


 孝之はサングリアに口をつけてからチラッとこちらを見て、何となく言いにくそうに言葉をつなげた。


「もしよかったら、案内しようか? 休みもたまっているし、一日か二日くらいだったら行けるけど……」


 周囲の喧騒が少しだけ小さくなり、隣にいる彼との距離が少し遠く感じた。あまりに急な誘いに驚き、そしてその誘いを自分が嫌がっていないことに二重に驚いた。いろんな思いが頭を駆け巡り、のどが渇く。私は唐突に彼の飲んでいるサングリアを飲みたくなった。よく冷えたホワイトビールではなく、果物のたくさん入った甘いサングリア無性に飲みたい。


「……そうね。海を見てみたいかな……」


 窓の外に見えるホームレスに視線を固定したまま、私はぎりぎり彼に聞こえる声で答えた。


「分かった。あとでメールくれるかな? 飛行機の到着時間とか教えてくれたら、空港まで迎えに行くよ」


 彼はカルヴァン・クラインのシンプルなケースから自分の名刺を取り出し、その裏にメールアドレスを書きつけた。渡された名刺の表面を見たら、誰もが知るメガバンクの名前が書かれていた。


「ありがとう。帰ったらメールするよ」


「さて、同僚のところに戻らなきゃいけないからそろそろ失礼するよ。メール待っているね」


「分かった。またね」


 彼は軽くグラスを持ち上げ、店の奥の方に消えていった。

 私は半分ほど残っているビールに口をつけたが、その味は空気のようで全く喉に届いた気がしなかった。カトリーナとエヴァが席で待っているはずだけれど、今はまだ戻りたくない。私は窓の外をぼんやりと眺めながら、彼と過ごした日々を思い出してみた。もちろん彼とは少なくない時間をいろいろな場所で過ごしてきた。けれど、いつも彼のことを思い出そうとすると、最初に私の瞼の裏に現れるのは高校二年生の彼だ。

 夏休み、蝉がけたたましくその存在を主張する道で、私たちは二人で並んでいる。どこまでも透き通った青空、車のいない二車線道路、歩道脇に植えられた街路樹の影。そういった懐かしい風景が私を取り囲むと、私の鼻孔の奥底が湿気を含んだ風の感覚を感じる。ゆっくりと左を見ると、ほっそりとした高校性の彼がカバンを肩にかけて立っている。二人だけの世界で、私たちは手の甲が降れるか触れないかの距離をゆっくりと歩いていた。

 それは、額縁に入れられて私の記憶の貯蔵庫の地下に安置された、もう触れることのできない高校生活の一瞬であった。それはヴィンテージ物のワインのように想い出の奥底にひっそりと横たわっており、いつまでも栓を開けられることなく眠り続けている。


 その記憶の残滓を味わいながら、私は自分が当時からあまりに離れた場所に立ってしまっていることに気が付いた。当時の私たちは、十一年後にロンドンのパブで偶然再会するようになるなんてこれっぽっちも思っていなかっただろう。私たちにとってロンドンとはニュースでその名前を聞くだけの都市であり、十一年という月日はSF映画の舞台となる未来でしかなかった。


 私はカウンターに向かい、サングリアを注文した。不愛想なアジア人の店員は特に返事もせずデキャンタとグラスを取り出す。私は彼の二の腕に彫られたタトゥー——そこでは「Memory」と「Love」が派手に装飾されて踊っていた——を、何ともなしに眺めていた。

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