最終話

「階段から落ちたようですな」


 僕が目を開けると、そこには心配そうに僕を覗き込んでいるスギモトの姿があった。身体中が痛む。僕は病室のベッドに横たわっていた。

「気付きましたかな」

 老医師が明るい声で言った。

 脳外科医が単なる打撲の検診をするというのも新鮮だった。

「屋上で何をしていたの? あと少しでも見つかるのが遅かったら、死んじゃってたかも知れないんだから」

 スギモトがホッとしたような声で言った。僕は頭に包帯をぐるぐる巻きにされていた。顔も打ったのか、右頬にガーゼが貼られている。噛み合わせもおかしい。歯が折れたのかも知れない。


「あの階段は色々とあるんですよ」

 老医師が何でもない風に言った。

「どこの病院にも、死んだ人が通る道があるらしい。どうやらあの階段がそれに通じているらしく、まぁ人が多いこと、多いこと」

 パイプ椅子まで引っ張り出して、スギモトの隣に腰を下ろした。スギモトは迷彩のキャップを手に持って、白いリーバイスのシャツとジーンズを身に付けていた。どうしてスギモトがいるのだろう。僕は混乱していた。

「私はね、死後の世界なんて信じてないよ。人間は脳の電気信号に従って生きている。これはもう間違いない。脳の電気信号が人を動かすし、心を支配しておる。夢はその電気のトチ狂った放電に過ぎない。夢を見るからこそ、人は魂じゃなくて電気信号のやり取りで生きていると言える。皮肉なもんでな、生きて、電気を発生させなければ人は夢を見られない。魂だけでは夢は見られない」

 フォフォフォ、と老医師が笑った。今までこの医師が笑ったところを見た事がなかったので、新鮮だった。いつも書類に目を落として、我々の顔も見ずに説明をするだけの医師だったのだ。それが今、怪しいオカルトの話をしながら目を輝かせ、いかにも楽しそうに話をしている。よりにもよって、僕が弱っている時に。隣のスギモトも困った顔をして笑った。老医師はスギモトがいるから機嫌が良いのかも知れない。


「あの階段はね、幽霊が出るって評判じゃった。『血溜まりがある、掃除をして欲しい』と連絡があって、清掃に行くともう無い、とかしょっちゅうでな。終いには清掃会社の者も『またか』って放っておいたらしい。他にも首吊りの人間がぶら下がっているとか、手足がない兵隊があの階段に繋がる扉に消えていったとか、まあよく有りがちなそれじゃよ。だから中の者は必要のない限り絶対にあそこには近付かん。君と同じように怪我をした者も多い。なんぞ、夢を見たって言ってな、しばらく錯乱しておった。すぐ退院していったけどな」

 フォフォフォ、と笑った。

「ま、お嬢ちゃん、このお兄さんが無事で良かった。お嬢ちゃんが見つけなかったら、本当にどうなってたか判らんかったよ。人通りがほとんどない階段じゃきね。お手柄、お手柄。お兄さんはちゃんと、このお嬢さんに感謝しないといけんよ」

 どうしてここが分かったの、とスギモトに聞くと、後で教えてあげると言った。


「トキトオ?」

 僕がトキトオさんについて尋ねると、老医師は首を傾げた。

「先日辞めた女性だな、うん。確かに働いておったよ。最初は事務職だけやってたが、最近は看護師としてよく働いておった。なかなか気が利く、真面目な隠れ美人さんじゃったよ」

 隣のスギモトの顔を見ながら、老医師が顎髭を軽く撫でて言った。

「どこへ引っ越したかって? ダメダメ、そういうのは今、個人情報のあれこれがうるさいから。すまないけど、教える事はできないね」


 ⬛︎


 僕とスギモトは二人で病院から出た。外はすっかり夜になっていた。


「どうしてここが分かったんだ」

 僕は隣を歩くスギモトに聞いた。

「僕はこの病院の事を君に話していない」

「非通知で電話があったのよ」

 言いにくそうにスギモトが言った。

「病院の名前と、ヒガシダの名前を言って切れた。場所も言って欲しかったわよ。屋上とか普通探さないから」

「どんな声だった?」

「少し幼い声だったような気がするけど、覚えてない」

 スギモトが俯きながら言った。

 すぐに忘れてしまうような声、と小さく続けた。

 僕とスギモトは口数も少なく歩いて帰った。何かについて語るには、あまりにも色々な事があり過ぎた。僕が見たのは夢だったのだろうか。それとも、真実だったのだろうか。


「ありありなしなし」

 帰り際、駅前の人通が少なくなった商店街を歩く時、スギモトが僕の隣で、小さな声で歌うように次々と判定していった。錆びた乾電池の自動販売機、暗い和菓子屋のカウンター、剥がされそびれた政治家の色が変わったポスター、角の八百屋の緑色の屋根。

「なしなし、ありなし」

 速度制限の標識、電柱に立て掛けられたロードバイク、十年以上変わってなさそうな暗い蕎麦屋のショーウィンドウ、コンドームの自動販売機。

「楽しそうだな」

 と僕は言った。

「それなりに」

 スギモトが恥ずかしそうに言った。それから僕に問いかけた。

「あなたには見えないの?」

「見えない」

 僕は答えた。スギモトは俯いて、小さな声で僕に言った。

「じゃあ、こういうのもうやめた方がいいかな?」

「全然構わない。ずっと続けていて欲しい」

「そう?」

 ニッコリと恥ずかしそうに笑って、スギモトは僕の腕に自分の腕を絡ませると、ありとあらゆるものに対して文学性の判定作業に取り掛かった。はたから見たら我々はさぞかし仲の良いカップルに映るのだろう。だが、僕にはスギモトが何を言っているのかさっぱり分からなかった。多分、それで良いのだろう。僕には見えないものをスギモトが「そこにある」と教えてくれる。いつか、僕はそれを一緒に見つめる事ができるのだろうか。


 その夜、僕はスギモトと寝た。

 傷はズキズキと痛んだが、行為自体に支障はなかった。勃起は完璧だったし、そもそも激しい動きは我々には必要がなかった。スギモトの中に入ると、

「そうそう、これを待ちかねていた」

 とスギモトが言った。

「想像通り、大変よろしい」

「ちょっと休憩」

 僕はそこで動くのをやめた。

「傷が」

「可哀想なヒガシダくん」

 スギモトが下から僕の頭に巻かれている包帯に手を当てた。

「一生懸命傷付いて、ご苦労さん」

 小さな声で言って、僕の背中を撫でた。

「僕を探してくれて、ありがとう」

「どういたしまして」

スギモトがキスをしながらくぐもった声で言った。

「ちょっと体勢が……よいしょ」

「ちょっと、今はだけはやめて」

 スギモトが抗議の声を上げた。

「すまん」

「本当に仕方がないなぁ」

 クスクスと笑って、我々は唇を何度も重ねた。

「腰、打たなくて良かったね」

 そうして我々は秘密話をするようにゆっくりと交わった。


「クロスロードの事なんだけど」

「なに?」

 僕の顎の下でぴったりと身を寄せたスギモトが満足そうな声をあげた。

「あの主婦は最後どうなるの?」

「ご想像にお任せします」

「あの地域は林業が盛んだ」

 僕は想像した事を話をした。

「ほうほう、それで」

「信号無視をして交差点を突っ切ろうとすると、多量の木材を運ぶ巨大トレーラーが横から突っ込んでくる可能性もある」

「あるね」

「主婦は誤って子供を射殺してしまった。合ってる?」

「合ってる」

「じゃあ、主婦が生き延びるというのは少し納得がいかないような気がする」

「主婦は妊娠しているのよ」

 眠たそうな声でスギモトが答えた。

「死なせるにはあまりにも気の毒に過ぎるでしょ」

「そういうものかな」

 僕は少し考えて、スギモトに聞いた。

「そういうものよ」

 夢の端に立つようなスギモトのまどろむ声が聞こえて、やがてスギモトは規則正しい寝息を立て始めた。僕はしばらくスギモトの背中を撫でていたが、やがて薄暗い微睡みに落ちていった。



「最ッ高だぜぇ!!」

 真っ青な空に白い雲が浮かんでいる。流れる景色はどこまでも砂漠だ。空気はからっからに乾いていて、飲むビールは片端から汗になって蒸発してしまう。アクセルは勿論べた踏み。オープンカーのシボレー。そのエンジンの唸りは超絶最高潮。バックミラーに映る砂煙は右から左へ、アポロ13号の離陸のように過激な噴き上がりを魅せている。助手席にはスギモトが居て、紙袋に包んだ瓶の酒をラッパ飲みしている。乾いた熱い風で髪が靡く。

「フー!!」

 サングラスを掛け、スギモトがテンション高く叫んだ。

「私たちは、どこまでも行ける! 地球の果てまでも!!」

 爆音で流れる音楽はとっくに歪んで何の曲か分からない。ラジオ!ラジオ!ラジオ!

「飛ばせ、飛ばせぇー!!」

 スギモトが風を受けながら両手を上げて絶叫する

 その先には交差点が見える。信号は赤だ。

 ゆっくりと暗い影が左の方から迫ってくる。

 我々はその暗くもったりと動く影に、未だ気付かない。




 翌朝、眼が覚めると頭上のデジタルクロックが「8:43」と表示していた。スギモトは僕の腕の中でぐっすりと深い眠りに落ちていた。今日は何曜日だっけ、と僕は思い出そうとしたが、傷の痛みに顔を思わず顰めた。

「スギモト」

 僕は死んだように眠っているスギモトに小さく声を掛けた。瞼が少しだけ動いて、やがて目覚める気配があった。しかし、眠りがスギモトを捉えて離さない。唇が言葉にならない動きをしている。僕はスギモトの額に口を付けて、声を掛けた。

「起きろ、スギモト。朝だ」

 それでもスギモトは目覚めなかった。

 僕はスギモトを軽く揺すって、その耳元で囁いた。


「僕たちの朝だ」











(了)


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文学性の女 江戸川台ルーペ @cosmo0912

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