37. 雷鳴

 ツルタ(仮)が入院した翌日、刑事達が事情徴収にやってきた。どちらも温和そうな、昔からの京都弁を喋る高齢の刑事だった。町ですれ違っても忘れてしまうような身なりと顔をしていた。そうした匿名性を身に纏う事に長けているのかも知れない。だがよくよく目を覗き込んで見ると、その奥には「人の話は、基本嘘」と書いてあるように思えた。それは実地で経験を積み重ねてきた結果として完成した理論であるようだった。ツルタ(仮)が「男が二人組でやってきた。腹を切られた。銃を持っていた」という三点の事実を、異なった問われ方に対して同様に数回繰り返すと、刑事達は去っていった。大変でしたね、ごゆっくり静養してください、というような言葉を適当に置いていった。


 夏の日差しが病室の床にくっきりと四角い陽だまりを作った。刑事達が去ると、静寂は一層増した。収容された部屋は大きな病院の六階にある個室だった。申し訳ないが、あなたはしばらく誰とも面会する事は出来ない。面会の可と不可は病院側が決定するものではなく、警察さんの指示が必要なのだと担当の医師から伝えられた。傷の跡は残るが、命に差し障る事はない。この病棟内では自由に過ごして構わない。点滴がゆっくりと滴り、ツルタ(仮)は再び眠りに就いた。痛み止めが注入されているのか、身体がもったりと重たく、眠ろうと思えばいくらでも眠れそうだった。銃撃の衝撃であの男がベッドの上で踊るように宙を舞う様を思い出したのか、ツルタ(仮)は溢れる笑みを抑える事が出来なかった。やってやったのだ。


 ツルタ(仮)は毎日、新聞を欠かさずチェックした。もちろん事件は新聞を飾っていたが、その大きさは思った程ではなかった。北海道で大きな地震があった事や、繁華街での火事が重なったからだ。相撲界においても大きな不祥事が発覚しているようだった。ツルタ(仮)はそうした興味をそそられそうにもない記事にも平等に一文字一文字、丁寧に目を走らせた。個室の窓際には花が一輪飾られており、それを看護師が毎日取り替えに来た。少し会話を交わす事もあったが、だいたい天気の話や、当たり障りのない物事についてばかりだった。

 三日後、ツルタ(仮)は病衣のまま点滴がぶら下がっているキャスターを転がし、指定された電話ボックスまで歩いて行った。公衆電話コーナーは壁に埋め込まれるようなボックス型で、扉は茶色いガラスで覆われていた。ひっそりと目立たない場所にあった。中には緑色の電話機が一台だけ設置されており、その脇にはテレホンカードが販売されている簡素な自販機が置いてあった。硬貨の投入口が削れている、使い古されたものだ。ツルタ(仮)は中に入ると、電話機の裏側をまさぐり、ガムテープで厳重に貼られているA3相当の茶封筒を発見した。乱暴に剥がして中を覗くと、百万円の束が一つと拳銃が入っていた。それと便箋二枚。ツルタ(仮)は便箋を広げて読んだ。

「我々が消されれば、次はお前だ。“しるし”を見逃すな」

 ツルタ(仮)は綺麗な目を細め、その文章を繰り返して読んだ。もう一枚の便箋は白いままだった。ツルタ(仮)は鼻を啜って袋に戻すと、それを無造作に持ったまま公衆電話コーナーのドアを押し開け、自部屋へ戻った。誰も被害者がまさか拳銃と百万円を収めた茶封筒を持ってるとは思わないし、仮に誰かが不自然と感じても、その中を見せろという人間がいる訳でもないのだ。


 サイドテーブルにそれらを放り込み、鍵を乱暴に掛けると、ツルタ(仮)はベッドで横になった。

 公安の立場であったツルタ(仮)は一方的に離職を宣言し、反社会勢力ブラザーと手を組んで男を射殺した。反社会勢力ブラザーは自分達が男を消したという事実が欲しかったし、ツルタ(仮)は自らの手で男を射殺する事、そして事を成し遂げた後も、社会から、公安の目から身をくらませる事を望んだ。もし某国のクリーナー掃除屋が我々の仕事に気付いたとしたら、必ず消しに来るだろう。クリーナー掃除屋は男に関わった人間を全て消すことが使命なのだ。

 ツルタ(仮)は奴ら掃除屋の手口を知っていた。一度動けば、目的を達成するまでに手段を選ばないのが奴らの行動に通底している理念だった。祖国に身を尽くす事で、彼らもまた国の人質となっている自分達の家族を守らなければならないのだ。

 特に彼らの情報を得るために行う拷問は苛烈だった。ツルタ(仮)は職務上その動画を何度か見た。生きたまま性器を切り取り、本人に食べさせるのは優しい方だった。闇医師の立会いの元、身体を1パーツ毎に切り取って、本人の目の前で調理をして食べさせる事もあったし、拷問者らが食べる事もあった。切り取られた部位を闇医師がすぐに治療し、輸血を同時に行う事で、そう簡単には絶命にまで至らないのだ。左手小指から始まり、右大腿部で対象者は気が狂って生き絶えた。また別の動画では、生きたまま人間の皮を剥ぐ事もあった。対象者の嘆願の悲鳴が耳に残った。もちろん殺す。だがそこに至るまでの道のりが恐ろしく過酷で長い。絶命後も髭剃りのような音を立てて皮を剥ぐ彼らをみて、ツルタ(仮)は嘔吐した。そのような作業中にも、奴らは音楽を大きな音で流し、まるで娯楽として楽しんでいるかのようだった。その姿は人でありながら、同時に人ではない何かだった。ツルタ(仮)は目を閉じて眠りについた。汗がじっとりと額に浮かび、嘔吐感が胃からせり上がってくるのを感じた。


 新聞に注目すべき地方記事が載ったのは翌朝だった。

 男性二人の遺体が若狭湾海岸に上がったという記事だった。遺体の一部が損壊していて、身元を確認するものは一切身につけていなかった。警察は事件として捜査している。二行にも満たない飛ばし記事だ。恐らく三日後には誰も記憶していないだろう。だが、ツルタ(仮)はその記事を何度も繰り返して読んだ。それはやけに気を引いた。あるいは“しるし”なのではないか。病室の窓辺にある一輪の花も交換されなくなった。看護師の姿も見かけなくなった。些細な事だ。ツルタ(仮)の容態が良くなったので、頻繁に顔を見せなくても良くなったから、単に忘れているのかも知れない。しかしそれも“しるし”の予兆として捉えられなくもなかった。

 ツルタ(仮)は運ばれてきた朝食に口を付けず、行動した。ベッドのシーツを剥いで適当な大きさに割いた。病衣を脱いで手早く上半身巻きつけると、その腰に拳銃を、腹に百万円の束を挟んだ。病衣を元どおりに着るとすこし体格がガッシリとしたようだったが、違和感は無かった。長い髪の毛をどうするか鏡の前で悩んだが、ひとまとめにするだけにした。そして、周囲を伺いながら病室を出た。

 遠くからスーツの男が歩いて来るのが見えた。髪をきちんと左右に分け、中肉中背の絵に描いたようなサラリーマンだ。病院の大きな通路で、左右には小部屋のドアが連なっていた。どこかの病室に見舞いにでも行くのだろうか。しかし遠目に見ても、その男が病院に用事があるとは思えなかった。荷物を持っていない。ネクタイをしていない。無精髭だ。眼鏡を掛けているが、その奥の目はどこかで見覚えのある生気のない色をしている。

 ツルタ(仮)はとっさにナースステーション入り口に入って男をやり過ごした。数名のナースがカウンターで端末を弄ったり、書類に記入をしたりと忙しそうに働いていたが、ツルタ(仮)に気付く事はなかった。ツルタ(仮)は男の後ろ姿を目で追い、その男が自分の部屋に姿を消したところを見届けて、自分が追われる身になった事を確信した。誰かがしくじったのだ。自力でこの病棟から脱出するしかない。

 しかしエレベーターはナースステーションの目の前にあった。一階まで乗っていく訳にはいかない。階段を使って降りるしかない。ナースステーション内を横切って反対側の通路に出ると、非常階段に通じるドアを探した。数名のスーツの男がこちらに向かって歩いてくるのが見えた。彼らは最初、ゆっくりと歩いていたが、ツルタ(仮)を視界に認めるとやや歩調を早めたように思えた。確実に追われている。非常階段に通じる表示を見つけ、ドアを開けようとしたが、ガチッという冷たい音が無情に響いた。鍵が掛かっていたのだ。ツルタ(仮)は舌打ちをして、男達と反対に向かって歩いた。外の非常階段に賭けるしかない。


 外の非常階段に続くガラスの扉はスムーズに開いた。都会の昼の空気が一気に流れ込んできた。ツルタ(仮)は白いステンレス製の階段を降りようとしたが、下からスーツの男が上がって来るところが見えて、やむを得なく上へ上へと上がっていった。男たちは全く焦っていなかった。階段は屋上まで続いていたが、途中でまた病棟内に入った。いざとなったら大声を出して保護されれば良い。だが、病院自体が某国に何らかの干渉を受け、保護された後に奴らへ引き渡される可能性も捨てきれなかった。

ツルタ(仮)は近くのリネン室に入った。乾燥器と洗濯機がたくさん並んでおり、大きなテーブルには患者用の病衣の他に、従業員用の制服や看護服も置いてあった。ツルタ(仮)は手早く病衣を脱ぐと、適当な看護服を身に付け、その前に置いてあった箱から適当なネームバッヂを取って胸に付けた。そのバッヂには上級看護師トキトオと書いてあった。用具箱には裁ちばさみも入っていた。ツルタ(仮)はそれをポケットに忍ばせ、大きな音を立てて揺れる洗濯機と乾燥器の間に身を隠した。激しく音を立てる乾燥機と洗濯機が心強く感じられた。頭上には籠、左右には洗濯機だ。


 しばらく誰も現れなかったが、およそ十五分後に扉が開いた。ツルタ(仮)は頭を伏せ、息を止めた。目の前を黒い革靴が通り過ぎたが、洗濯機の音で何も聞こえなかった。しばらく革靴が部屋の中で何かを探すように彷徨い、やがて部屋から出て行く雰囲気があった。ツルタ(仮)は念のため、最低限の呼吸で部屋に身を隠し続けた。やがて洗濯機と乾燥器が作業を終え、部屋は静寂に包まれた。恐ろしい静けさが周囲に戻ってきた。それでもツルタ(仮)は動かなかった。やがて、チッという舌打ちの音が聞こえ、乱暴にドアを開き、何者かが出て行く音がした。奴は未だに部屋に留まっていたのだ。ツルタ(仮)は深く息を吐いた。

 携帯電話も腕時計もしていなかったので、体感で十分程時間を置いてからツルタ(仮)は部屋の外へ出た。誰もいない。改めて自分の格好を確認すると、胸のバッヂにトキトオと書いてあるのが分かった。ツルタ(仮)は少し微笑んだ。悪くない名前だ、とでも言うように。


 だが捜索は続いていた。男がツルタ(仮)の姿を見つけ、今度は走って向かってきたのだ。ツルタ(仮)は踵を返すと躊躇なく外の階段を使って、屋上へ登って行った。屋上に辿り着くと周囲を見回し、隠れるところを探した。物干し竿が何本も立てられ、シーツが気持ちよさそうに日に干されていた。空調設備の四角いタンクのようなものが沢山置いてあった。それらを通り過ぎると、病棟内に戻る為の大きなコンクリート製の四角い建物があり、その脇に梯子が掛かっているのを発見した。アンテナを整備する用の物なのか、隠れる場所にちょうど良さそうに思えた。ツルタ(仮)は首尾よく上に登り、身を伏せて隠れた。


 男は焦ってはいなかった。携帯電話で連絡を取り合いながら数名が屋上に集結するのが見えた。男達は徹底的にツルタ(仮)を探し回った。屋上には次々と男が現れ、その数は十名以上になりそうだった。ツルタ(仮)は絶望した。ここが見つかるのも時間の問題だった。発見されれば、恐ろしい拷問を受けて死ぬのが分かっていた。生を受けた事を後悔する程の激しい苦痛を限界まで受け、最後は自らの身体の一部を喰わされて発狂死するのだ。そう思うと身体がブルブルと震えてきた。梯子が掛かっていた跡を男の一人が見つけ、仲間に声を上げた。


ツルタ(仮)は震える手で胸元から銃を取り出し、その銃口を飲み込んだ。もう逃げられない。首尾よく反撃すれば、数名は道連れにできるだろう。だがそれでも結果は変わらない。今なら生にほんの少しの感謝を捧げながら死ねるだろう。涙が溢れそうになり、ツルタ(仮)は上を向いた。銃を逆さに持ち、人差し指で引き金に指を伸ばした。きっちり後頭部を吹っ飛ばせる角度だ。リコ、と小さな声を発するように喉が揺れた。その瞬間、突然周囲が闇に包まれ、雷が空を切り裂き、豪雨が屋上に降り注いだ。


 ツルタ(仮)は引き鉄を引かず、そのまま雨に打たれた。男達が散りじりになって屋上を去っていく姿が見えた。ツルタ(仮)はこんなにも激しい雨を経験した事がなかった。これが雨というのなら、今まで見た雨は水圧が低いシャワーにも等しく思えた。雷が激しく、ひっきりなしに鳴り響いた。腹の底まで響き渡る程の雷鳴だった。ツルタ(仮)が隠れている場所を発見した男は、大きな声で仲間を呼んだが、誰も近付いては来なかった。声も届かなかったし、長く留まれない程の豪雨だったのだ。視界は一メートルもない。男は大声をさらに張り上げたが、誰にも届かなかった。男は完全に無防備になった。


 ツルタ(仮)がその上から襲いかかった。飛び降りた先に男の頭があり、激しく男の顔面を地面に叩きつけた。男は生きていたが、ツルタ(仮)は間髪入れずに男の首を逆に回し、絶命させた。激しい雷の瞬きが男の死体とツルタ(仮)を浮かび上がらせた。それは祝福のようにも見えた。ツルタ(仮)は天を仰いで大声で力の限りに叫んだ。どこにも届かない叫びだった。やがて落ち着くと、ツルタ(仮)は泣きながら男の遺体を引き摺って、苦労してフェンスを乗り越えさせると、躊躇なく遺体を地面に投げ落とした。ツルタ(仮)は意味のない大声を上げた。言葉にならない言語が内側からいくらでも溢れ出た。やがて病院は大騒ぎになるだろう。その間隙を突いて、ツルタ(仮)は病院を抜け出すのだ。そうして抜け出した先で生きていくのはツルタ(仮)ではない。私ではない、何者かだ。裁ちばさみを取り出して、ツルタ(仮)は激しい雨に打たれながら髪の毛をぞんざいに短く切った。トキトオとして生まれ変わるために。









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