36. ツルタ(仮)

 海だと思った。深い青と黒い影のコンストラストがずっと目の前を通り過ぎ、まるで明け方の海の表面を低空飛行で飛んでいるかのようだったが、浮上するとそれはベッドの上の厚地のタオルケットの表面だった。薄暗い部屋の中でベッドのスプリングが軋む音が響き、その上で男女が接合しているのは明らかだった。僕はその場所へ行ったことは無い。だが僕はそこを知っている。あの男が隔離された部屋、京都の療養所だ。男女の声は圧し殺してはいるが、明らかな高ぶりを抑えられない。


「やっぱり最高だよお前は」

 下になっている醜い男が汗塗れの顔を顰めて言った。ただ、余りにも顔が醜い為に顰めているのかどうかも定かではない。その男の上に跨っているのはトキトオさんだ。腹に傷はない。身体は陶器のように白く、長い黒髪が乱れ、顔の半分を覆っている。男の胸に両手をつき、腰だけを使って男の精液を可能な限り搾り取ろうとしている。その瞳は美しく冷徹で、口からは艶かしい声を控え目に漏らしてはいるが、悦楽などとは無縁であるのが見て取れる。

「少し喉が渇いちゃった」

 トキトオさんは男に跨ったまま、体を伸ばしてサイドテーブルに置いてあったペットボトルを手に取り、その水を口に含んだ。そして、醜い男に口移しで少しずつ流し込んだ。同時に腰を妖艶に蠢かし、男の快楽を引き出す事も忘れなかった。男はトキトオさんに頭を抱えられ、少しずつその水を飲み込み、口内から食道、胃まで流し込んでいった。トキトオさんは自分の乳房を男に吸わせ、まるで達するのを我慢するかのように息を荒らげた。男はトキトオさんに腰を打ち付け硬直し、達した。快楽の余韻に浸って無様に開いたままの男の口に、トキトオさんは自らの舌を差し込み、思う存分にしゃぶらせた。そして腰をゆっくりと上げて男の性器を自分から引き抜いた。男は息を切らせたままベッドから動けなかった。


 トキトオさんの裸体は美しく、滑らかに剃毛されていた。そのままベッドから降り、全裸のまま部屋の出入り口まで歩いて行くと、その引き戸が音もせず数センチ開き、外で待機していた何者かがトキトオさんにビニール袋を手渡した。そのビニール袋は大きい透明なゴミ袋で、中には黒いリボルバー式の拳銃が入っていた。トキトオさんはそのゴミ袋で右肩まですっぽり覆い、ビニール越しに拳銃を持つと安全装置を外した。弾倉をスライドさせ、弾丸が装填されているか、確かめた。戻す時のチャッという金属の軽快な音が部屋に響いた。


 男が異変に気が付いて、首だけをトキトオさんに向けた。トキトオさんは拳銃を右肩に担いで、悠々と男が横たわるベッドの前に戻った。まるで休日であるにも関わらず、律儀にタイムアラートを鳴らす携帯電話を止めに戻るかのように。

「なんだ」

「お前らがめちゃくちゃに犯したリコな、自殺したぞ」

 トキトオさんが自分の右肩にリボルバーをトン、トン、と当てながら平坦な声で言った。

「やめろ」

 男が顔を真っ青にして言った。

「ずいぶんお楽しみだったみたいだな。検死の結果はご両親の自殺を誘発するのに充分だ。どんだけお仲間をご招待して楽しませたんだ?」

「すまなかった、俺が悪かった」

「リコには絶対に手を出すなって、あたしは言ったな?」

 銃口は一度まっすぐ真上を向き、それからゆっくりと男に向けて下がり、やがてピタリとその場に停止した。

「許してくれ」

 発砲音。間を置いて合計四度、鳴り響いた。

 脳天、左胸、右肩、腹。着弾の衝撃で男はベッドで冗談みたいに踊り跳ね上がった。トキトオさんは余程もっと発砲しようか悩んでいるようだったが、発砲しようとしては照準を外し、やはりまた発砲しようとして銃口を向けてそれを逸らし、自身の中にある執拗な男に銃弾を撃ち込みたいという欲望を制御するのに苦労しているようだった。

 やがて扉が開き、同僚がトキトオさんの着替えを持って現れた。

「イナガがいる」

 同僚が情報を伝えると、トキトオさんは拳銃を置いて、用意されていた下着と看護服を身につけながら小さく頷いた。


 お局の関所で、大勢の同僚たちがイナガを囲んでいた。

「あんた達、こんな事をして済むと思ってるの」

 真っ青な顔をしたイナガが毅然と言い放った。

「私達のバックに、誰が付いてると思ってんの。こんなチンケな療養所、一晩で丸焼けよ。どきなさい! 離しなさい!」

「残念だけど、あんたのお国将軍様はあんたらを見捨てたってさ」

 人の輪がさっと割れて、看護服に着替えたトキトオさんが現れた。

「イナガさん。あたしの身分、分かる?」

「あんた、誰に向かって口を利いてるの? 敬語を使いなさい!」

「そうそう某国のしきたりは死んでも年上を尊べ、だったわね」

 トキトオさんが呆れた風に言うと、周囲の同僚達が失笑を漏らした。

「でもここは日本だし、あたしはあんた達を取り締まる方の側の人間」

 イナガの顔が能面のように無表情になった。

「ツルタ、お前公安一課……」

トキトオさんの顔を見て、イナガは『ツルタ』と呼んだ。僕は混乱した。トキトオさんの名前はツルタだったのか?

「元公安。今はただの人間よ。あんな屑は生かせておけない。射殺した。然るべき所と連絡を取り合って、みんなとしっかり計画してね」

 ツルタ(仮)が笑顔で袋に入った拳銃を掲げて見せた。

「お前は見逃してやろうと思っていたのに、何故戻ってきた」

「台風でバスが止まっていたのよ。仕方がないから引き返してきた」

 ブルブルと震えながらイナガが言った。

「公安が何故あの男を殺したの。裏切りじゃないの」

「あたしはただの人間だ。もう公安じゃない」

「ただで済むと思ってるの!?」

 イナガの金切り声を、ツルタ(仮)は目をギュッと閉じてやり過ごした。それからビニール袋を裏返しにして拳銃を握ると、イナガに銃口を向けた。

「あんたを生かしておく訳にはいかない」

 すると、イナガはブルブルと震え出し、涙を流し跪いて命乞いをし始めた。

「許してください。何でもします、絶対に口は割りません……今まであなたにした事も、全て心から謝罪します。本当に今まで申し訳ございませんでした。何もかも、あの男があたしに命令し、強要し、脅迫してきたからなんです。どうか、どうか命だけは許してください……! どうか、お願いします!」

 大声で涙を流しながら、お願い許してくださいとイナガは繰り返した。あまりの手のひら返しぶりに、周囲の同僚達は失笑と嘲笑をないまぜにしたような息をついた。ツルタ(仮)は真っ直ぐに跪いたイナガに銃口を向け、無表情のまま考え込んでいるようだった。殺した方が良い。だが、ツルタ(仮)内にある何かが引き鉄を引かせないようだった。何度も銃を握り直して、鋭い目を瞬かせた。


 窓の外で停車する音がして、そのドアが閉まる音が響いた。

奴らブラザーが来る。早くしないとウチらがヤバい」

 同僚の一人が耳打ちした。ツルタ(仮)は小さく頷くだけだった。


「すみませーん!」


 野太い男の大声が正面玄関から響いた。


「すみませーん!」


 ツルタ(仮)も、同僚も動けなかった。イナガだけ、失禁しながら土下座の格好をして命乞いを続けていた。ドカドカと乱暴な歩く音が遠くから、最初は小さく、やがて大きくなって、大勢がイナガを中心とした円を作っている関所に男の二人組が姿を現した。小さい男と、大きな男だ。どちらもすぐそこで買ったような、身体の大きさに合わないブラックスーツを着ている。小さい男には大き過ぎて、大きな男には小さ過ぎた。


「なんだこいつは」

 小さい男が土下座をするイナガを見て言った。ツルタ(仮)の周囲の同僚達には目もくれず、まるでこの場にいるのはツルタ(仮)だけという風な振る舞いだった。そのようにしてこの男は組織内で人間を格付けしてきたのだろう。

「計画が狂った」

 ツルタ(仮)が時間を読むような口調で言った。

「さっさと始末しろ、時間が惜しい」

 小さな男が命令した。

「分かっている」

 ツルタ(仮)が銃口をイナガの後頭部に向けた。土下座をしているイナガを射殺するとなると、後頭部しかないのだ。しかし、それでも引き鉄を引けなかった。チッ、と小さい方の男が舌打ちをした。それから肘で大男を突き、目だけで合図を交わした。

「お嬢さん」

 小さい男が跪いて、イナガに優しい声を掛けた。杖が折れ、路上で途方に暮れて座り込む老婆に掛けるような慈しみに溢れる声だった。

「命は助けてあげるから、協力して欲しい」

「絶対に口外しません! 許してください、許してください!」

「我々の事は、絶対に口外してはいけないよ。信じてるよ」

「命を助けてくれるんですか」

イナガはグシャグシャになった顔を、小さい男に向けた。小さい男はニコニコしながら頷いた。

「ありがとうございます、ありがとうございます!」

 イナガが小便にまみれながら何度も頭を地面に叩きつけた。

「絶対に、絶対に口外致しません! ありがとうございます!」

 小さい男がイナガの肩を揉むようにして元気付けた。

「タダで黙ってろなんて、もちろん言わないから。相応の礼はするよ。一生遊べるくらいの金は払わせていただく。当然の事だ。こっちの国の人間はそういう恩義は一生忘れないんだ。結局のところ、我々は同じ兄弟なんだよ。なぁ? 怖かっただろう」

 イナガが涙を流し、涎を垂らしながら小男に抱きつこうとした。

「ととと、ちょっと待ってくれ、そのお漏らしは流石に」

 小男がイナガを押し留めた。

「ささ、立って着替えよう、な。風邪引いちまうし、色々と粗相があるとみんな居心地が悪い。さ、立てるか」

 イナガがブルブルと震える足を抑えながら、小男が肩を貸してやって何とか立ち上がった。しっかりと立たせると、「素晴らしい。そのまま、そのまま」と言いながら小男が一歩下がった。

 大男がポケットから拳銃を抜き、発砲した。一瞬の事だった。イナガの額に小さな黒い点が穿たれ、その後ろの壁に盛大に脳漿をぶち撒けた。同僚達が驚きの声を上げてへたり込んだ。壁に、机に、床に血を降らしながらイナガは後ろへもんどり打って倒れた。

「手筈通りやれ!」

 小男が怒鳴った。

 ツルタ(仮)が銃を持ったまま、呆然とした顔をしてイナガの死体を眺めた。身体は奇妙に折り曲がって、目は閉じていたが、後頭部からはブルーベリージュースのような黒い液体が止めどなく溢れ、床に滴った。


 大男がツルタ(仮)を羽交い締めにした。持っていた銃は手袋をした同僚によって厳重にビニール袋の中に戻され、小男に渡された。

「ツルタ、分かってるな」

 ナイフをジッポーで炙りながら小男が言った。

「突然男達が押し入ってきて、切りつけられた」

虚ろにツルタ(仮)が言った。

「そう。それだけで良い。誰もお前を疑わない」

 同僚の一人が看護服をめくりあげ、ツルタ(仮)の白い腹を露わにさせた。

「収容される病院の三階、公衆電話の裏に封筒が貼ってある。三日後に確認しろ」

 ツルタ(仮)にしか聞こえないように小男が囁くと、左手で腹にあたりをつけて、右手のナイフで一気に割いた。ツルタ(仮)の顔が苦痛で歪み、堪え切れない呼吸が低い声と共に漏れた。大男がツルタ(仮)を地面に転がし、小男は回収した銃を片手に指示を出した。

「いいか、お前らは何も見なかった。ツルタの手当ては我々が去った五分後にしろ」

 男たちは去っていった。数人の同僚が時計を測って、きっかり五分後にツルタ(仮)の傷を止血した。もう一人が警察に通報した。全員が目配せをし合って、これからの先に起こる物事を、共にうまく乗り越えようと決意するかのように頷いた。我々を制圧していた汚らわしい王は、既にその先にあるベッドの上で処刑されたのだ。







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