35. 血溜まりに潜る
父は一般病棟へと移った。
未だ頭には包帯を巻いて痛々しい姿をしてはいたが、言葉もゆっくりと喋る事が出来るようになったし、食事も介添え人がいなくとも一人で食べられるようになった。驚異的な回復だと医師が言っていた。意識が回復して、最初に僕の顔を見て言った事は「大学の具合はどうだ」「ちゃんと卒業しろ」だった。余程気に掛かっていたのだろう。元気だった頃のような気軽さを装った風な忠告ではなかった。途切れ途切れに、喉で詰まる言葉を分解し、咀嚼してから吐くように言った。元気だった頃よりも、そういう言い方の方がずっと心が篭っているように思えた。父と二度と話す事が出来ないと覚悟していた時に、僕は言いたい事や伝えたい事がたくさんあった筈だった。だがいざ生還した父を目の当たりにして、それが何だったのかは思い出せなかった。大切な事だったような気もするし、そうでもなかったような気もした。恐らくこれから、ゆっくりと思い出していくのだろう。
夕方、トキトオさんが指定した時間に屋上へ行くと、そこには懐かしい景色が広がっていた。エレベーターが故障していたので、僕は久しぶりに階段を登って行かなければならなかった。ずいぶん前に、大きな血溜まりを見つけた階段だ。重たいステンレス製の扉を押し開けると、慣れ親しんだ場所が目の前に広がった。屋上は陽が傾きかけてはいたが、たっぷりと太陽の熱を吸い込んだコンクリートが夏の匂いを放っていた。誰かが屋上で水撒きでもしたのかも知れない。前は見掛けなかった観葉植物の植木鉢が五、六個程、建物の影に沿って並んでいた。湿った土の匂いがした。
煙草を吸いたくなったが、一人暮らしに戻ってから禁煙を始めていたので、ハッカのタブレットを振って三粒口に入れた。
「エレベーターが壊れてる」
トキトオさんが私服で現れた。肘まで捲った青色の薄いカーディガンを着て、白いブラウスに足首までの黒いスカートを履いていた。靴はコンバースの白いハイカットだった。我々は自殺防止の高い金網の前で、並んで外を眺めた。
「階段なんて久しぶりに使ったわ……煙草吸わないの?」
トキトオさんが僕に尋ねた。
「禁煙してるんです」
僕はシャツの胸ポケットから黒いフリスクを出して振った。
「ヒガシダ君は長生きがしたいのね」
いくらか涼しさを増した風に乱れた髪を耳に挟みながら、トキトオさんが微笑んで言った。以前の剣呑とした雰囲気はすっかり無くなって、明るく朗らかだった。夕日に暮れなずむトキトオさんの横顔は嘘みたいに綺麗だった。胸の奥が静かに震える感触があった。
「血管を大切にする事は良い事よ。脳の太い血管も破れないに越した事はないから」
「トキトオさんは吸っていいんですよ」
「あたしも煙草はやめた」
「いつからですか?」
僕は驚いて聞いた。
「たった今から」
トキトオさんがおどけて言った。
「よく考えてみたら、やめようと思った瞬間から吸わなきゃいいだけの話なのよね。どうせ電車の中じゃ吸えないし、もうどこへ行くにも真っ先に喫煙所を探すのが疲れたわ」
「この後、新幹線ですか?」
「そう。荷物はもう送ったから、ほとんど手ぶらです」
「手ぶらです?」
「何よ」
「敬語を使うトキトオさんが新鮮だったので」
「ちょっと緊張してるんですかもね?」
「何ですかその日本語は」
我々は小さな声で笑った。
「おとうさん、良くなってよかったね」
「ありがとうございます」
我々は二人で小さな声で話をした。それから二人でまた景色を眺めた。今まで通りなら煙草の匂いがする筈だったが、今日の空気はどこまでも澄んでいた。少しだけ濡れたアスファルトと、焚き火のような乾いた冬の匂いがするだけだ。川に掛かる鉄橋に光を反射させる車と電車が走っており、遅れてそれらの音、すぐ耳元で風が通り抜ける音がした。なぜ冬の匂いがするのだろう、と僕は不思議に思った。傾いた陽の光が冬の角度なのかも知れない。
「あたしに会いに来てね」
トキトオさんが遠くを眺めながら言った。
「いつか、必ず。もう少し大人になってから」
僕も言った。
「トキトオさんも、こちらに来る時があれば教えてください」
「それは難しいかな」
トキトオさんが首を傾げて申し訳なさそうに言った。
「どうしてですか」
「実家に帰るのも嘘」
「じゃあどこに」
「ずっと遠く。内緒」
「そんなのって酷くないですか?」
僕は怒って言った。
「勝手に姿を消して、僕にどうしろって言うんですか?」
「だから、いつでもあたしに会いに来て」
「どこへ?」
「たくさん本を読んで」
トキトオさんが僕の顔を真っ直ぐに見つめて言った。
「同じ風景をあたしと一緒に見て。同じ匂いを、揺らぐ心を、あたしと一緒に味わって。本を読めば、ずっと同じ時間をあたしと一緒に、何度も過ごす事が出来るから」
僕は何も言葉にできず、トキトオさんを見つめた。
「あたし達が会える場所は地続きだけど、こことは違う場所なのよ。そこでは同じ夢を、ずっと一緒に見ていられる」
「分からないです、もっとはっきりと場所を指定してください」
僕は胸騒ぎを抑えながら言った。トキトオさんがまるで別人のように思えた。
「好きよ、ヒガシダ君。こんなあたしの為に、一生懸命になってくれてありがとう」
陽射しが差し込んで、嘘みたいに綺麗な目をしたトキトオさんが眼鏡を外して僕を見た。僕が何も言えずにいると、少し背伸びをして僕の額にキスをしてくれた。そうして音もなく踵を返し、躊躇なく僕を置き去りにした。
「トキトオさん!」
僕はその背中に声を掛けた。トキトオさんは階段に続く扉に手を掛けていた。
「僕はあなたが羨ましい」
声を大きくして続けた。
「こんな事を言うのは馬鹿な事だし、言うべき事じゃないって分かってます。でも僕は、トキトオさんの事が羨ましいです。自分の人生を歩んできて、色んな経験をして、怪我をして、踏み潰されて、でも生きてる。自分を持って生きてる。僕には何もない。誇れるものも、人を救う事もできない。潰れるもなにも、僕は紙みたいに薄っぺらなんです。踏まれても汚れるだけだし、踏んだ人間はきっと僕を踏んだ事にすら気付かない」
僕は涙を堪えて笑った。ここで泣く訳にはいかない。恐らくトキトオさんと話すことが出来るのはこれが最後なのだ。僕にはそれが分かった。
「こんな僕でもね、多分将来は色々とあると思うんです。挫折とか苦労とか喜びとか、色んなものを抱え込んで、悩んで生きていくと思うんです。そんな事、もう決まってるのが分かってるんです。楽しいとか辛いとか、生きてる限りそれを受け入れなきゃいけない。通らなきゃいけない。それがもう、嫌なんです。面倒くさいんです。トキトオさんは今、どんな気持ちですか。生きていて楽しいですか。辛いですか。人生の転換点が去った後、人はどういう気分になるんですか」
トキトオさんは扉に手を掛け、背を向けたまま聞いていた。
「僕には何もない。これから先、何かがあるのは分かっているのに、生きていても死んでいても、あんまり変わらない気がする」
トキトオさんが振り返って言った。
「あなたはあたしを救ったのよ。胸を張って、しっかり生きて」
そうしてトキトオさんは去っていった。バタン、という扉が閉じる音がその合図だった。僕だけが空虚な音のない世界に取り残された。いや、音が無くなったのはドアが閉まったその一瞬だけだった。耳を傾ければ音は徐々に引き返してきた。街の音だ。僕は振り返った。冬の匂いとそこから見下ろす冷たい風景があった。地表は暗く、雑居ビルにまばらに光が灯っていた。遠くには送電塔の赤い光が鼓動のように点灯を繰り返してるのが見えた。チリチリと胸の奥が痛んだ。目を閉じても瞼の裏側でずっと呼吸のような瞬きが続いた。
カチャリとドアが開く音がした。階段に続くステンレス製のあのドアだ。トキトオさんが戻ってきたのかと思い、僕はそっちを見た。
屋上には闇が迫っていた。白い人間がステンレス製のドアを少しだけ開けて、こちらを見ていた。それは恐らく女性だった。白い顔を半分だけ扉から出してこちらを無表情に見つめていた。誰だろう、と僕は思った。写真で見た事がある、そうだ、リコだと僕は思った。リコはやがてまた虚無の表情で中へ消え、重たいドアが閉まる音がした。幻覚、幻聴にしてはあまりにもリアルに過ぎた。そして悪い予感がした。酷く肌寒い。夏なのに。
僕はそっと重たい扉を開け、中へ侵入した。その先には降り階段があった。踊り場の壁に掲げられた「R↑↓12」という蛍光灯の表示が切れかけ、パチパチという音をさせながら点灯していた。ドロリとした空気の闇を光が不規則に照らし、目が眩むような感覚があった。階段を降りると、踊り場には見覚えのある血溜まりが広がっていた。それは余りにも黒く美しい円形で、蛍光灯が放つ一瞬の光を冷たく反射させていた。僕には、血溜まりがそこにある筈だという確信めいた予感が自分にあった事に気が付いた。
血溜まりの側で片膝を跪くと僕はその黒い液体を見つめた。僕はこんなにも大量の血液を見た事が無かった。だから、これは厳密に「人の血液である」と断定する事は出来なかった。単にここが病院という場所であって、そこから「人の血液ではないか」と無意識に判断を下したに過ぎない。人間の病院で山羊や羊の血が溢れている可能性は低い。トキトオさん、と僕は声を上げた。声の残響は虚しく壁に吸い込まれるだけだった。
僕はその血溜まりに顔を近付けて、匂いを感じようとした。その瞬間、真っ赤な人間の両手が血溜まりから伸びて、僕の頭を抱え込むように血溜まりの中へと引き摺り込んだ。僕は頭から血溜まりに突っ込み、そのまま血の中へ潜っていった。
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