138 晟藍国を出立する朝 その4


 明珠達が最後だったらしい。甲板に上がるとすぐに階が引き上げられ、船をもやっていた綱がほどかれる。


 出航を告げる銅鑼どらの音が鳴り響き、下ろされた帆が風を孕んで大きくふくらんだ。


 海からの風を受けて、船がゆっくりと動き出す。


 港に立つ藍圭達が別れを惜しむように大きく手を振る。ひらひらと揺れる初華の薄紅色の袖は、まるで舞い踊る蝶のようにも、よく晴れた青空へ飛び立とうとする小鳥のようにも見える。


 明珠も甲板のへりに身を乗り出し、初華達へ手を振り返そうとすると、不意に影がさした。


 かと思うと、力強い腕が腰に巻きつき引き寄せられる。ふわりと揺蕩たゆたったのはかぎ慣れた高貴な香の薫りだ。


「そんなに身を乗り出しては、華揺河に落ちてしまうぞ?」


 すぐ近くで囁かれた美声と身体に回された力強い腕に、一瞬で顔が熱くなる。


「だ、大丈夫ですっ! 子どもじゃありませんから、落ちたりなんていたしませんっ! お放しくださいっ!」


 身をよじって逃げようとするも、龍翔の腕はまったく全然ゆるまない。


「だめだ。お前はわたしの度肝を抜くのが何より得意だとわかったからな。いっときも目を離さぬことに決めた。特に帰途は玲泉がいるからな。片時たりとも気が抜けん」


 明珠を抱き寄せていないほうの手で初華達に手を振り返しながら龍翔がきっぱりと言い切る。


「で、ですが、これは……っ!」


 港の初華達も驚いているのではなかろうか。


 心配になるが、風を掴んだ船はぐんぐんと速度を上げ、あっという間に初華達の姿が、きらきらと輝く華揺河の向こうへ小さくなっていく。


「……初華と、最後に何を話していたのだ?」


 龍翔が静かな声で問うたのは、手を振るのをやめてからしばらく立ってからだった。


 船は夏の陽射しを反射してきらめく水面みなもを分けてぐんぐんと進み、船体に当たる波しぶきが楽の音のように聞こえる。


 陽射しはまばゆくて強いが、龍翔がそばに《氷雪蟲》を喚んでくれているので暑くはない。


 風が通り過ぎてゆくたび、龍翔の衣に焚きしめられた香の薫りが鼻をくすぐる。


「先ほどのお話の続きです」


 なんだか、まばゆい夢の中に迷い込んだような心地がする。


 けれど、明珠を抱き寄せる力強い腕は、決して夢などではない。


「ああ、乙女同士の秘密だそうだな」


「す、すみません。私にはよくわからなかったのですが……。龍翔のためにもなるお話だそうです」


「わたしの?」


 興味を惹かれたように呟いた龍翔が、明珠の顔を覗き込む。


 黒曜石のまなざしと視線があった瞬間、心臓がぱくりと跳ねた。


『あなたがずっとそばにいたい相手は誰なのか。どうしてそばにいたいと想うのか。自分の心を見つめてほしいの』


 不意に、初華の声が頭の中に甦る。


 明珠がずっとそばにいたいと願うのは龍翔だ。


 誰が何と言おうと、それだけは間違いない。けれど……。


「明珠?」


 甲板の離れたところで立ち働く水夫達がいるだけで、他はみな船室へ入ってしまったからだろう。龍翔が本当の名前で明珠を呼ぶ。


 それだけで、切なくなるほどの幸せが胸の中に満ちてくる。


「龍翔様、私……」


 なんだかさっきから変だ。

 心臓が、ぱくぱくと騒いで仕方がない。


「どうした? 顔が紅いぞ? 暑さにのぼせたか?」


 形良い眉を心配そうに寄せた龍翔が、大きな手のひらでそっと明珠の頬を包む。


「そろそろ船室へ行こう。初華達と別れて、気が緩んだのやもしれぬ。お前に何かあっては大変だ。わたしの心臓が心配で壊れてしまうからな」


 告げるなり、龍翔が明珠を横抱きに抱き上げて歩き出す。


「り、龍翔様っ!? 下ろしてくださいっ! こ、こんなっ、こんな……っ! 他の方に見られたらどうするんですかっ!?」


 足をばたつかせて抵抗するが、龍翔の歩みは淀みない。


「お前が怪我を負ったのは、他の者も知っている。怪我をした従者を主が気遣うのは当然のことだろう?」


「ですが、もう怪我は治していただいておりますから平気ですっ!」


 恥ずかしくて頭が沸騰ふっとうしそうだ。


 だが、龍翔は楽しげに笑うばかりで下ろしてくれない。


「よいではないか。ようやく、差し添え人の大役を終えたのだ。いまだけ、少しくらい羽目を外してもよいだろう?」


 そんな風に言われたら、明珠にはもう何も言えない。龍翔がふだんから厳しすぎるほどに己を律して公務に励んでいるのは、そばに仕えている明珠も嫌というほど知っている。


 と、船室へ通じる扉をくぐると思いきや、その手前で足を止めた龍翔が甲板を振り返る。


「よく、晴れているな。初華と藍圭陛下の晴れやかな未来を言祝ことほぐかのようだ」


 黒曜石の瞳が見上げたのは、雲ひとつなく澄み渡った蒼天だ。


「はいっ! 本当におっしゃるとおりですねっ!」


 はずんだ声で大きく頷いた明珠は「ですが」と言葉を続ける。


「きっと、言祝いでいるのは初華妃様と藍圭陛下の未来だけではありませんっ! 龍翔様の未来もですっ! だって、龍翔様がお召しになっている衣と同じ色ですから!」


 澄んだ青は龍翔が纏う銀糸で《龍》の刺繍が施された衣と同じ色だ。


 明珠の言葉に虚をつかれたように目を瞬いた龍翔が、くすりと甘やかな笑みをこぼす。


「そうか。わたしの未来もか」


「初華妃様も藍圭陛下も、龍翔様のお幸せを願ってらっしゃったのですから、龍翔様の未来もこの青空みたいに晴れやかに決まってますっ!」


 勢いよく言い切り、あわててつけ足す。


「も、もちろん、私も心から龍翔様のお幸せをお祈り申し上げておりますし、微力ながら尽くさせていただきますけれど……っ!」


「お前が祈ってくれるのなら、これほど心強いことはないな」


 遥かな蒼穹そうきゅうを見上げていた龍翔が、不意に明珠と視線をあわせ、蜜のように甘く微笑む。


「ありがとう、明珠。お前の心が、何より嬉しい」


「っ!? い、いえ……っ。龍翔様が喜んでくださったら、私も嬉しいです……っ」


 身も心もとろけてしまいそうな笑みに、明珠はすがるように服の上から胸元の守り袋を握りしめた。


 ぱくぱくと、守り袋の下で心臓が騒いでいる。


 鼓動をはずませるこの感情を何と呼ぶのか。明珠はまだ、その名を知らないでいた――。

                                 おわり


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