138 晟藍国を出立する朝 その3


「ですから、どうかお兄様も……」


 明珠の手を放した初華が、両手で祈るように龍翔の手を握る。


「大丈夫だ、初華。政敵にいいようにやられたりはせぬ。おぬしが晟藍国で憂いなく過ごすためにも、くだらぬ企みなどに不覚をとるつもりはない」


 龍翔が穏やかに微笑んで初華の手を握り返す。割って入ったのは玲泉の声だ。


「龍翔殿下のおっしゃるとおりですよ、初華妃様。つまらぬ企みなどわたしが潰してみせましょう」


「玲泉」


 にこやかに歩み寄る玲泉の姿を見た途端、龍翔が纏う空気が紫電を孕んだように険しくなる。が、玲泉は意に介した様子もなく龍翔の隣までやってきた。


「羽虫を追い払う程度、わけもありません。つまらぬ者に勝負の邪魔をされるほど、興が削がれることもありませんからね。……ああ、礼というなら、明順からで十分ですよ? 帰りの船旅の間に――」


「おいっ! 玲泉!」


「ふぇっ!? 私からですかっ!? あの、玲泉様、本当にありがとうございますっ!」


 龍翔の険しい声と明珠の礼を述べる声が重なる。玲泉が楽しげに喉を鳴らした。


「明順は本当に素直で愛らしいね。だが明順。お礼というのは、言葉だけではなく――」


「どーします、初華妃サマ? いっそのコト、玲泉サマだけもう十日ほど晟藍国にご滞在いただいて、別の船でお帰りいただきます?」


「……そうね、安理。お兄様と明順の平穏のためには、そうしたほうがよかったかもしれませんわ」


 玲泉の声を遮った安理の声に、初華が疲れたような吐息をこぼす。玲泉がくすりと笑って肩をすくめた。


「おやおやそれは。蛟家の嫡男をないがしろにしたら、あとあと困るのは龍翔殿下と藍圭陛下だと思うけれどね?」


「やはり、船は玲泉に任せて、我々は陸路で帰るべきだったか……?」


 龍翔が苦々しく呟く。当初、帰国に際してそんな案も出ていたのだ。だが。


「明順が陸路を選ぶなら、わたしもそちらを選ぶに決まっておりますよ」


 玲泉がにこやかに、季白達が予想したのと寸分違わぬ台詞を言う。


 明珠にはよくわからないが、龍翔達が検討したところ、毎回、警備の厳重な宿を取れるかわからぬ陸路よりも、船内の限られた空間を守るだけでよい船のほうが安全だということになったらしい。


「玲泉様。……あなた、正々堂々とお兄様に挑むのではありませんでしたの?」


 初華が胡乱うろんげなまなざしで玲泉を見やる。玲泉があっさりと頷いた。


「ええ、先日の言葉に嘘はございません。ですが、目の前に愛らしい花が咲いていれば、つい手を伸ばして愛でたくなるのが人のさがというもの。愛らしすぎる『花』ゆえ、仕方がありません。ね? 明順」


「ふぇっ!? あのっ、いったいどういう……っ!?」


「愛らしいのは大いに同意するが、だからといって害虫を近寄らせる気は欠片もないぞ?」


 戸惑う明珠をよそに、龍翔と玲泉が睨み合う。


「まったく、ああ言えばこう言う……」


「いやぁ〜、ほんっと楽しーことになりそうっスよねっ♪ あっ、大丈夫っスよ、初華妃サマ! オレだってちゃあんと龍翔サマの大切な『花』を守りますから♪」


 白い繊手で額を押さえる初華とは対照的に、安理はやけに楽しそうだ。


 いつまでも乗船しない龍翔達に業を煮やしたのか、季白と張宇もそばへやって来る。


「玲泉様! いい加減、お乗りください! 先ほどから玲泉様の従者達が落ち着かぬ様子です! ご自身の従者の管理くらいしっかりしていただきたいものですね!」


 季白の言葉に甲板を見上げれば、唯連いれんを始めとした玲泉の従者達がじっとこちらを見つめている。


 目が合った瞬間、睨まれたような気がして明珠は思わず身を強張らせる。一介の従者に過ぎない明珠などが初華妃と親しく話しているのを見て、不敬だと思っているのかもしれない。


 季白の言葉に仕方なさそうに吐息した玲泉が、


「では、先に参っておきましょう。では明順、また後でね」

 と甘やかな笑みを残して背を向ける。


 申し訳なさそうな声を出したのは張宇だ。


「龍翔様、初華妃様。別れがたいお気持ちは重々承知しておりますが、そろそろ……」


 浬角を従えた藍圭も初華の隣へ歩んで来る。


「義兄上、初華妃はわたしがお幸せにしてみせます! そして……。晟藍国を見事立て直してみせますので、どうかご安心を」


「ええ。初華のことは、藍圭陛下にお任せいたします。ですが……。もし何かございましたらすぐにお教えください。お二人のためならば、すぐに駆けつけてまいります」


 龍翔が慈愛に満ちたまなざしで妹夫婦を見つめる。


「ご心配いりませんわ。わたくしがしっかり藍圭様をお支えいたしますもの! でも……。無事に龍華国へ帰国されたら文をくださいませ。わたくしも、折につけてお送りいたしますわ」


「ああ。細やかに近況を送ろう。……藍圭陛下と、幸せにな」


「わたくしも、お兄様達の旅のご無事とお幸せを、心からお祈り申し上げますわ」


 繋いだ手をぎゅっと握りしめあった龍翔と初華が、名残惜しげに手を放す。


「藍圭陛下。どうぞ、初華をお頼み申します」


「はい! お任せください!」


 藍圭の返事に満足そうに笑みをこぼした龍翔が背を向ける。季白達に続いて、明珠も龍翔の凛々しい背中を追おうとして。


「明順!」


 はしっ、と初華に手を掴まれる。


「いいこと? 先ほど言ったことをちゃんと覚えておいてちょうだいね。あなたがずっとそばにいたい相手は誰なのか。その気持ちを――何と呼ぶのか」


「は、はいっ」


 初華の真剣なまなざしに表情を引きしめて頷くと、初華が花開くように微笑んだ。


「きっと、わたくしはその場に居合わせることはできないでしょうけれど……。あなたが自分の心に気づく日を楽しみにしているわ。明順、あなたの未来に幸多からんことを」


「ありがとうございますっ! 私も、初華妃様と藍圭陛下の末永いお幸せを、いつも心よりお祈りしております……っ!」


「ふふっ、嬉しいわ」


 心から真摯に告げると、初華がふだんの彼女らしい勝ち気な笑顔に戻る。


「明順?」


「あっ、はい! ただいま参ります!」


 甲板へ上がるきざはしへ足をかけた龍翔が、まだ来ぬ明珠を振り返る。

 初華と藍圭に深々と一礼し、明珠はあわてて龍翔を追いかけた。


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