138 晟藍国を出立する朝 その2


「い、いえ、その……っ。晟藍国にいる間に、いろいろなことがあったなぁ、と思い返していて……」


 初華に心配をかけまいと、ふるふるとかぶりを振って、笑みを浮かべる。とっさに出た言葉だが、まるきりの嘘というわけではない。


 晟藍国へ来ることが決まってから、本当にいろいろなことがあった。


 淡閲たんえつで刺客に襲われ周康が怪我を負い、玲泉に正体がばれ……。


 晟藍国に入って藍圭と合流できてからも、さまざまな妨害に遭い、なかなか『花降り婚』の準備が進まなかった。


 しかも、『花降り婚』の場で《龍》が暴走したのだから……。


 実際はまだ二か月ほどしか経っていないはずなのに、初めての船旅にのんきに浮かれていた頃が、遠い昔のように思える。


「確かに、いろいろなことがあったわね」


 明珠の言葉に、初華もしみじみと頷く。


「わたくしもお兄様も、大きく変わりましたもの」


「そうですね! 初華妃様は、晟藍国の正妃様になられて……っ!」


 はずんだ声を上げた明珠は、すぐに「あれ?」と首をかしげる。


「でも、龍翔様が変わられたことって……?」


 ちらりと視線を向けた龍翔は、藍圭や玲泉とにこやかに談笑していて、どこも特に変わった様子はないように思える。


「あら? 明順は気づいていないの?」


 からかうように初華に問われ、明珠はあらためて尊敬する主人をまじまじと見つめた。


 龍華国の第二皇子にふさわしい豪奢ごうしゃな衣に身を包んだ龍翔は今日も凛々しくて、見惚れてしまいそうなほど立派で……。


「龍翔様がいつだって素敵で素晴らしい御方なのはわかるんですが、どこが変わられたのでしょうか……?」


 もしかして、気づいていないのは明珠だけなのだろうか。だとしたら、従者として情けなさすぎる。


 しょぼん、と肩を落として初華に答えを求めると、なぜかぷっ、と吹き出された。


「もうっ、明順ったら! お兄様のことをそんなに褒めそやしているのに、本当に気づいていないのね!」


「ふぇっ!? あ、あのっ、どういうことでしょうか……っ!?」


 なぜ初華が吹き出したのか、理由がまったくわからない。


「だ、だって龍翔様はいつだってご立派で凛々しくて、そればかりかいつも本当にお優しくて……っ! あっ! 藍圭陛下という素晴らしい弟君おとうとぎみができて、さらに慈愛に満ちてらっしゃるということでしょうかっ!?」


 必死で考えて大真面目に告げたのに、何が面白いのか、初華はころころと笑うばかりだ。


「確かに、藍圭様とお兄様の仲がよいのは、わたくしも嬉しい限りですわ。でも、そうではなくて……。お兄様は、本当に変わられましたの。明順、あなたのおかげでね」


「え……っ!?」


 驚いて上げた明珠の声にかぶさるように、「出航の準備が整いました」と船長が恭しく告げる声が聞こえる。


「まあ、もうそんな時間だなんて……。ねぇ、明順」


 不意に初華の繊手せんしゅが明珠の手を強く握る。


 明珠を見つめる龍翔と同じ黒曜石の瞳には、驚くほど真剣な光が宿っていた。


「昨日、話したことを覚えている? あなた自身も幸せになってよいのよって。わたくしも、あなたの幸せを心から願っているわ。だから……。よく、考えてほしいの」


「初華妃、様……?」


 初華の気迫に呑まれたように言葉が出てこない。そんな明珠にかまわず、初華が明珠の手を握った指先に祈るように力を込める。


「あなたがずっとそばにいたいと願っているのは誰なのか。どうしてそばにいたいと想うのか。自分の心を見つめてほしいの。……お兄様のためにも」


「龍翔様の、ため……」


 敬愛する主人の名前を紡いだだけで、なぜかぱくんと心臓が跳ねる。

 明珠の顔を見た初華が花が咲くように微笑んだ。


「ええ、そうよ。あとは……。あなたが気づくだけだもの」


「私が……?」


 初華が何を言っているのか、明珠にはまったくわからない。


 けれど、初華がとても大切なことを伝えようとしてくれているのは、真剣なまなざしを見ただけでわかる。


「わたくし、あなたとお兄様の幸せを心から祈ってますわ! たとえ遠い異国に暮らしても、わたくし達はお友達でしょう?」


「っ!? はいっ! もちろんですっ! 私も初華妃様と藍圭陛下のお幸せを心から祈っておりますっ!」


 心の底からの想いを込めて、初華の手をぎゅっと握り返す。


「ありがとう、明順。嬉しいわ! ……あなたが自分の想いに気づいたら……。意外と早くに再会できるかもしれないわね?」


「ふぇ? 初華妃様? それっていったい……?」


「明順、初華。別れを惜しめたか?」


 問い返そうとしたところで、耳に心地よい声が割って入る。

 毎日聞いている声なのに、聞いた瞬間、なぜかぱくりと鼓動が跳ねた。


 龍翔ににこやかに答えたのは初華だ。


「ええ。明順にとても大切な話をしていましたの」


「大切な?」


「ですが、お兄様には内緒ですわ。乙女同士の秘密の話ですもの」


 うふふ、と悪戯っぽく笑った初華が、ぴんと伸ばした人差し指を口の前に立てる。


「気になるのでしたら、いつか、明順がわたくしのかけた謎を解いた時に、明順に直接お尋ねくださいませ」


「明順に謎かけを? 初華、おぬし本当に明順に何を言ったのだ?」


 龍翔が秀麗な面輪をいぶかしげにしかめるが、初華は微笑んではぐらかす。


「ですから、秘密だと申し上げましたでしょう? ご心配なく。わたくしが明順に悪いことなんて企むはずがありませんでしょう? それに、これはお兄様のためでもありますのよ?」


「わたしの? ますますわけがわからぬが……?」


 兄の困惑顔に、初華が悪戯が成功した子どものようにくすくすと笑う。


「それほどお気になさらないでくださいませ。これは、晟藍国へ嫁いだわたくしからお兄様への贈り物のようなものですわ」


 告げた初華がつい、と視線を上げて、龍翔を見つめる。


「お兄様……。わたくし、お兄様のお幸せを、心から祈っておりますわ」


「わたしもだ」


 妹の真摯なまなざしを受け止め、龍翔もまた柔らかな笑みを浮かべる。


「わたしも、お前の幸せをいつも心から願っている。藍圭陛下と末永く仲睦まじくな」


「ええ、もちろんですわ!」


 大きく頷いた初華が、夏の陽射しよりもまばゆい笑顔を見せる。


「わたくし、藍圭様と一緒に、これからもっともっと幸せになりますの!」


 自信に満ちあふれた初華の笑顔を見ていると、間違いなくそんな未来が来るのだと、明珠も素直に信じられる。


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