138 晟藍国を出立する朝 その1
晟藍国を出立する朝は、朝から雲一つない晴天だった。
港に停泊する船の中でも群を抜いて立派な船は、明珠達が乗ってきた龍華国の船だ。海からの風を
『花降り婚』から四日。今日は、龍翔達がついに晟藍国を発つ日だ。
港には龍翔や季白達、玲泉だけでなく、見送りに来てくれた藍圭や初華、浬角や魏角将軍達もいる。
盛装した龍翔達が一同に会している様は、夏の陽射し以上にまばゆいほどだ。
初華と仲睦まじそうに隣り合って立つ藍圭が、並び立つ龍翔と玲泉を見上げて、にこやかに口を開く。
「義兄上、玲泉殿。差し添え人の大役、誠にお疲れ様でした。『花降り婚』が無事に成就できましたのは、お二人のご尽力ゆえに他なりません。深く感謝申し上げます」
深々と一礼した藍圭に、龍翔が穏やかに声をかける。
「もったいないお言葉でございます。ですが、どうかお顔をお上げください。『花降り婚』のために最も尽力されたのは、藍圭陛下ご自身です。わたしも玲泉も、そのお手伝いをさせていただいたにすぎません」
「龍翔殿下のおっしゃるとおりです」
玲泉もまた、顔を上げた藍圭に見惚れてしまうような柔らかな笑みを浮かべる。
「『花降り婚』の成就、誠におめでとうございます。藍圭陛下が『花降り婚』の申し入れに来られた時から、わたしはこの日が来ると確信しておりました」
「玲泉殿……っ!」
藍圭が感極まったように声を潤ませる。
「本当に、玲泉殿には何とお礼を申し上げればよいのか……っ! 浬角やほんのわずかな供だけで、右も左もわからぬ龍華国に辿り着いた時、玲泉殿のご厚意がどれほど頼もしかったことか。初華妃という最良の伴侶を得られたのも、玲泉殿のおかげです!」
藍圭の言葉に、隣に立つ初華が「あら」と声を上げる。
「藍圭様。玲泉様の手腕だけではございませんわ。わたくし自身が自分の目で藍圭陛下とお逢いして、『花降り婚』をお受けすることを決めたのですもの。でもまあ……。きっかけを作ってくださったお礼くらいは申し上げてもよいかもしれませんわね」
「おや。初華妃様にそのように言っていただけるとは。これで、
からかい混じりの玲泉の言葉に、きっと初華が目を吊り上げる。
「言っておきますが、玲泉様を華揺河に叩き込みたいと願っているのはわたくしだけではございませんわよ? もし帰りの道中でろくでもない真似をしてごらんなさい。すぐにお兄様が叩っ斬りますわ!」
晟藍国への旅路は華揺河を下ってくるだけでよかったが、龍華国への帰途は河をさかのぼることになる。
晟藍国からしばらくは海からの風が上流に向かって吹くため帆を利用できるが、そこから先は
そのため、ふつうの手段ならば行きに比べて倍以上の時間がかかってしまう。いや、これほど大きい船だと、人夫や牛馬の準備をするだけで大掛かりになってしまい、さらに日数がかかってしまうかもしれない。
だが、玲泉はともかく、龍翔にのんびりしている時間はない。
「王都では龍翔様の失脚を目論んでいる輩が山ほどいるのです! 王都を離れる期間が長ければ長いほど、政敵によからぬことを画策する時間を与えてしまうことになります! 『花降り婚』が無事に成就した今、一日も早く王都へ戻らねば!」
と、季白も息巻いて準備にいそしんでいた。
なので、一日も早く帰るために、帰途ではは龍翔や周康、玲泉達が船の後ろに《風乗蟲》を、船の前にたくさんの《板蟲》召喚して河をさかのぼる予定になっている。
《蟲》を船をさかのぼらせるために使うなんて、明珠は思いつきもしなかったが、貴人が乗る船ではそうした方法を取ることもあるらしい。龍翔、玲泉、周康と優れた術師が三人もいるからこそできる方法とも言える。
《風乗蟲》は無理でも《板蟲》なら明珠にも召喚できるので、どうか手伝わせてほしいと龍翔に願い出たが、術師が異なる《蟲》が混ざっていると、統率が取りにくいとのことで、申し訳なさそうに断られてしまった。
だが、明珠がまったくの役立たずというわけではないらしい。沈んでいる明珠の頭を撫でながら、龍翔に告げられたのは、
「その代わり、わたしが担当する時には大量の《気》が必要になる。これはお前にしか頼めぬ。……助けてくれるか?」
という言葉だ。もちろん明珠は、「はいっ!」と全力で頷いた。
……頷いてから、それが何を意味するのか気づいて燃えるように顔が熱くなったのは余談だが。
龍華国の差し添え人を見送るための堅苦しい儀式はすでに王城で済ませてきたため、港には晟藍国の高官達はほとんど来ていない。
そのためだろう、いつの間にやら従者達同士でも会話が始まっている。張宇に話しかけているのは浬角だ。
「いつか、また晟藍国に来られた際には、ぜひ一度、張宇殿の胸をお借りして、手合わせを願いたいものです」
「それは嬉しいことを。そうですね。晟藍国へふたたび参ることがあれば、ぜひとも剣を交えましょう」
浬角と張宇が笑顔で握手を交わしている。『花降り婚』の舞台で、それぞれの主人を守って戦った武人同士、いつの間にか親しくなったのかもしれない。
「いやぁ~っ、張宇さんってヤケに男の人にモテるっスよね~♪ もしかして、女の人より男の人のほうがモテてるんじゃないっスか?」
と、褒めているのか、呆れているのかわからない茶々を入れているのは安理だ。そばでは周康が苦笑をもらしている。
真剣な表情で魏角将軍に話しかけているのは季白だ。
「魏角将軍の晟藍国での人望の篤さをこの目で直に拝見し、誠に感服いたしました。ぜひとも、末永く藍圭陛下をお支えいただきたく存じます」
恭しく一礼した季白が切れ長の目で魏角将軍を見つめる。
「魏角将軍のご経験をもってすれば、もし震雷国が不穏な動きをした際には、いち早くお気づきになることでしょう。その際には、ぜひとも初華妃を通じて龍華国に早急に一報をいただければ幸いです」
「お任せくだされ。老体ですが、まだまだ一線を退くつもりはありません。藍圭陛下が押しも押されもせぬ晟藍国の国王となられたとはいえ、周りの大国が不穏な動きをしていては、なかなかお心も休まらぬことでしょう。わしの目の黒いうちは、晟藍国を好きにさせる気はございません」
「さすが、晟藍国水軍にこの方ありと謳われる魏角将軍。頼もしい限りでございます」
季白が感じ入ったように頷く。だが、季白の言葉を聞いた明珠の心はざわざわと不安に揺れていた。
震雷国の動向を季白が気にしているということは、つまり、雷炎を警戒しているということだろう。
明珠はその場にいなかったのでくわしいことは知らないが、『花降り婚』の後の宴の席で、雷炎が龍翔に対し、宣戦布告とも取れる発言をしたらしい。
そもそも、今回の発端となった晟藍国の前国王夫妻の暗殺も、震雷国が裏で手を引いていたと聞いている。
ただでさえ政敵に命を狙われ、禁呪に侵されているというのに、そんな相手まで目をつけられてしまうなんて、龍翔はどうなってしまうのか。考えるだけで不安に襲われてしまう。
「明順、どうしたの?」
我知らずうつむいていた明珠は、初華の声にはっと我に返って顔を上げた。いつの間にか、藍圭とは離れた初華が、明珠の前に立ち、顔を覗き込んでいる。
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