137 藍圭や初華との昼食 その7
「あなたから話を聞いた弟さんの優しい性格を考えるに、きっと弟さんは、自分が幸せになるだけじゃなく、明珠自身にも幸せになってほしいと願っているんじゃないかしら?」
「っ!?」
静かに発された初華の言葉に息を呑む。
今までまったく考えもしなかった視点を不意に提示されて。
初華が言うとおり、実家にいた頃、ずっと順雪は言ってくれていた。
『お姉ちゃん、無理はしないでね』
『ぼくだってできることはあるんだから。大きくなったらお姉ちゃんを助けるけど、今だって助けたいんだよ』
『だから、お姉ちゃんひとりが無理をしないで』
と……。
順雪の気持ちが嬉しかったのは言うまでもない。けれど、まだ幼い順雪には無理はさせたくなくて。
だって、十二歳で母と死別した明珠と違い、順雪はまだたった五歳だったのだ。母親との思い出だって明珠に比べればずっと少ない。
だから、亡き母が願ったとおり、順雪には苦労はさせまいと。しっかり勉強して立派な役人になって、幸せな暮らしをしてほしいと。
そのためならば、明珠はどんな苦労をしたっていいと、ずっとそう考えてきた。
でも……。もしかしたら、それは明珠の独りよがりだったのだろうか。明珠が気づかぬうちに順雪に負い目を負わせていたのだとしたら……。
「明珠」
不安に沈みそうになった心を掬い上げるかのように、優しく龍翔に名を呼ばれる。同時に、大きな手のひらで優しく頭を撫でられた。
「何か、誤解しているのではないだろうな?」
「え……?」
龍翔の言葉の意味がわからず、呆けた声を上げる。かまわず龍翔が言を継いだ。
「初華はお前を責めたのではないぞ? もちろん、順雪もお前に感謝こそすれ、お前を責める気持ちなど欠片もないだろう。初華が言いたかったのは、順雪だけでなく、お前にも幸せになってほしいということだ。順雪が幸せならお前も幸せなように、順雪も姉であるお前が幸せなら喜ぶだろうと……」
「龍翔様……」
穏やかな声で諭す龍翔を見上げると、想像以上に近くに秀麗な面輪があった。
「もちろん、わたしや張宇、初華達もお前が幸せになってくれれば嬉しい。お前だって同じだろう?」
「もちろんですっ!」
間髪入れずにこくこく頷く。
「龍翔様や初華妃様がお幸せになってくださったら、これほど嬉しいことはありませんっ! それに……っ!」
龍翔を真っ直ぐに見上げ、心からの想いを宿して告げる。
「龍翔様にお仕えできて、私はもう、十分に幸せですっ!」
言い切った途端、黒曜石の瞳が瞠られる。次いで、秀麗な面輪にとろけるような笑みが浮かんだ。
「ありがとう、明珠。お前の言葉が嬉しくてたまらぬ」
蜜のように甘い笑みに、ぱくりと心臓が跳ねる。
と、初華がはずんだ声音を上げた。
「明珠が今も幸せだなんて嬉しいわっ! お兄様に仕えることをそんなに喜んでもらえるなんて……。妹として鼻が高いわ」
「は、はいっ! 龍翔様は本当に素晴らしいご主人様ですから……っ!」
こんなに従者を思いやってくれる主人を明珠は他に知らない。
こくこくと大きく頷くと、初華の笑みが深くなった。
「明珠は、ずっとお兄様にお仕えしたいと願ってくれているの?」
「そ、その……っ」
何気ない初華の問いかけに、言葉を詰まらせる。
「じ、実は……」
口に出してもいいのだろうか。
ためらいに語尾が情けなく消え、顔を伏せる。
と、身を乗り出した龍翔に顔を覗き込まれた。長い指先が、明珠の手首をしっかと握る。
まるで心の奥底まで貫くようなまなざしに至近から射貫かれ、声が出なくなる。秀麗な面輪に浮かぶのは、明珠の心まで締めつけられそうな切なげな表情だ。
「……頼む。遠慮はいらぬゆえ、正直に言ってくれ。今まで、さんざん危険な目に遭っているのだ。しかも、今回はわたしの《龍》がお前を……っ!」
龍翔の面輪が、泣きそうにど歪む。話す声はいつも凛とした龍翔とは別人のように頼りない。
けれど、手首を掴む手だけは縋るように強くて。
「今度こそ、お前に愛想をつかされても仕方がない。お前が離れたいと願うなら――」
「ふぇっ!? な、何をおっしゃるんですか!? 龍翔様から離れたいなんて、一度も思ったことはありませんっ!」
真逆のことを告げられ、とんでもないとかぶりを振る。
「私がお願いしたいのはまったく逆ですっ! ずっとずっとお仕えさせていただきたいと……っ! そ、その……」
いつか、龍翔の禁呪が解けたあとでも。
口に出せない想いを込めて、黒曜石の瞳を見上げる。
果たして龍翔に伝わったのかどうか、明珠にはわからない。
だが、明珠の手首を掴む龍翔の手に、ぐっと力がこもる。
一瞬、秀麗な面輪が歪み、明珠は龍翔が本当に泣くのではないかと
「もちろんだ。前にも言っただろう? わたしはお前を離す気はないと」
言葉だけでなく行動で示すかのように、龍翔がぎゅっと明珠を抱きしめる。
「り、龍翔様っ!? あの……っ!?」
今日の龍翔はいったいどうしてのだろう。初華と藍圭、萄芭しかいないとはいえ、大胆過ぎる。
「どうなさったんですか!? もしかして、まだ体調が思わしくないとか……っ!?」
まだ不調が残っていて、《気》が足りなかったりするのだろうか。いやでも、守り袋を握るようにとは言われていない。
「季白さんか張宇さんを呼んできたほうがよろしいですか!? それとも、ごちそうの食べ過ぎですかっ!?」
なんとか龍翔の腕の中から逃げようともがきながら問いかけると、ふはっと吹き出す声がした。
「大丈夫だ。もう不調など残っておらぬゆえ、心配はいらぬ。……ただ、お前の言葉が嬉しくて、喜びが抑えられなかったのだ」
ようやく腕をほどいてくれた龍翔が、明珠を見下ろして、にこりと笑う。
蜜よりも甘い笑みに、ただでさえくらくらしている頭にさらに血がのぼりそうになったところで、初華の声が耳に届く。
「ふふっ、明珠がずっとお兄様のおそばにいたいと願ってくれるのは、喜ばしいことだけれど……」
ふぅ、と初華が困ったように吐息する。
「『ご主人様として』となると、まだまだ先は長そうねぇ……」
「す、すみません……っ! 早くもっと龍翔様のお役に立てる従者になれるように、季白さんの教本でしっかり学びますので……っ!」
身を縮めて詫びると、初華が虚をつかれたように目を瞠った。かと思うと、こらえきれないように、ぷっと吹き出す。
「もうっ、明珠ったら! でも、そうねぇ……。お兄様の従者はあの季白と張宇だものねぇ……。安理は安理で不安が残るし……。まったく、本当に手強いこと」
手強いと言いながらも、初華はやけに楽しそうだ。
「今日のところは、明珠がずっとお兄様にお仕えしたいと知れただけで満足することにしましょうか。さぁ、明珠。今日は滅多にない機会だもの。おいしいお菓子をたっぷり食べてちょうだいね」
「はいっ、初華妃様! ありがとうございます!」
明珠は大きく頷くと、おいしそうな色とりどりの菓子がのった皿に手を伸ばした。
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