137 藍圭や初華との食事 その6 


告げた瞬間、ぐいと強く腕を引かれた。


「ひゃあっ!?」


 椅子から落ちそうになった身体を龍翔の広い胸板に抱きとめられる。


「お前はまったく……っ! そんなことを言われたら、喜びで抑えが利かなくなるだろう?」


 龍翔の衣にき染められた香の薫りが押し寄せ、身体に回された腕にぎゅっと力がこもる。


「ふぇっ!? あのあのあのっ!? 龍翔様っ!?」


 いったい何が起こったのか、理解できない。


「あらあらあら……。どうしましょう、藍圭様。わたくし達も負けていられませんわね。もう一度、抱きしめあいます?」


「は、初華妃っ!?」


 からかうような初華の声と、あわてふためいた藍圭の叫び首を巡らせれば、椅子に座り直した初華と藍圭が、じっとこちらを見つめている。


 初華が楽しくてたまらないと言いたげに、わくわくした表情をしているのとは対照的に、藍圭は愛らしい面輪を紅く染めてもじもじと恥ずかしそうだ。


 というか、明珠だって恥ずかしい。恥ずかしすぎて、顔から火が出そうだ。


「龍翔様っ! お願いですからお放しくださいっ! な、なんでっ、なんで急にこんな……っ!」


「お前が愛らしすぎるのが悪い」


「ふぇぇっ!? いったい何の冗談をおっしゃっているんですかっ!? 初華妃様と藍圭陛下だっていらっしゃるんですよっ!? 私の心臓を壊す気ですかっ!?」


 ぐいぐいと力いっぱい押し返すと、ようやく龍翔の腕が緩んだ。ささっと距離を取った明珠は椅子に座り直して、両手で胸元を押さえる。


 服の上からでも、壊れそうなくらい心臓がばくばく鳴っているのがわかる。


「冗談ではないと、いつも言っているだろう?」


 龍翔が不満そうにこぼすが、ろくに耳に入らない。

 くすくすと、初華の明るい笑い声が卓に響いた。


「お兄様。申し訳ございませんが、続きはお部屋に戻ってからにしてくださいませ。今はせっかくの食事なのですもの。このまま冷めてしまっては、明珠に恨まれてしまいますわ」


「む……。それはいかんな」


 龍翔が生真面目な表情でうなる。


「さあ、明珠。中断してしまったけれど、食事を再開しましょう。今日は、存分に食べていってちょうだいね。食後にはちゃんとお菓子も用意しているのよ?」


「は、はいっ! ありがとうございますっ!」


 ぺこりと一礼し、あらためて箸を手に取る。


 仲むつまじい初華と藍圭を前に、凛々しい龍翔を隣にし、果たして料理が喉を通るかと心配していたが、まったくの杞憂だった。


 胸の奥がぽかぽかとあたたかくなるような幸福感と料理のおいしさに、ぱくぱくと食べてしまう。食べられないところか、際限なくおなかに入ってしまいそうだ。


 明珠を緊張させないためだろう。龍翔や初華、藍圭が口にするのも他愛のない、けれども一介の庶民にすぎない明珠には初めて聞く話題ばかりで、ついつい聞き入ってしまう。


 おいしい料理を味わいながら耳まで心地よいなんて、なんと贅沢なのだろう。感嘆しながら、食事を進め。


「しっかり食べてくれたようだな」


 明珠を見て、龍翔が満足そうにこぼしたのは、食後の茶が供された頃だった。


 すっかり空になった料理の皿と入れ違いに供されたのは、何種類もの菓子がのった皿と茶器だ。


 お皿が下げられる時には明珠も「手伝います!」と申し出たのだが、今の明珠は従者ではなくお客様なのだから、と萄芭に説得され、甘えてしまった。


「どうだ? 満足したか?」


「はいっ、もちろんですっ!」


 龍翔の問いかけにこくこくこくっ! と大きく頷く。


「幸せで胸がいっぱいで、入らなかったらどうしようかとちょっと心配だったんですけれど、それ以上においしくて……っ! 心もおなかもいっぱいで幸せですっ!」


 心から湧き上がる喜びのままに笑顔で告げると、龍翔の秀麗な面輪も嬉しげにほころんだ。


「そうか。お前が喜んでくれたのなら何よりだ」


「ええ。わたくしも嬉しいですわ」

 対面に座る初華も藍圭とともに笑みを浮かべる。


「藍圭陛下、初華妃様。お招きいただき、本当にありがとうございました」


 明珠は改めて二人に礼を言って深々と頭を下げる。


 初華と藍圭が顔を見合わせ、互いに微笑みあう。と、藍圭が明珠に真摯なまなざしを向けた。


「お礼を言いたいのはわたし達のほうです。少しでも感謝の気持ちが伝わったのなら、何よりです」


「藍圭陛下……っ!」


 明珠のような従者を思いやってくれる藍圭の優しさに思わず声が潤む。


「藍圭陛下と初華妃様がつつがなくご夫婦になられて……。『花降り婚』が成就して、本当によかったです……っ!」


 そのためならば、《龍》のあぎとの前に飛び出したのも、腕を怪我したのも、たいしたことではないと思う。


 と、まるで明珠の心を読んだかのように、龍翔が険しい表情で口を開いた。


「お前のおかげで『花降り婚』ができたのは、そのとおりだ。だが、頼むからあんな無茶はもう二度としてくれるな。次こそ、わたしの心臓が壊れてしまう」


「も、申し訳ありません……っ!」


 真剣極まりない声音に、身をすくめて詫びると、優しく頭を撫でられた。


「怒っているわけではない。お前はわたしの予想もつかぬ行動するゆえ、ただただ心配なのだ。……これは、乾晶で告げたとおり、本当にお前から片時も目を離すわけにいかんな?」


「えぇっ!?」


「あら、なんですの? 乾晶でのお話って。気になりますわ!」


 初華がうきうきと食いつき、明珠はあわててかぶりを振る。


「い、いえそのっ、たいしたことでは……っ!」


「あら。お兄様のお顔を見ると、とんでもないことのように見えますわよ?」


 初華がからかうように唇を吊り上げる。反射的に隣の龍翔を振り向くと、初華が言うとおり、形良い眉をきつく寄せていた。


「玲泉のこともあるからな。やはり、明珠は常にかたわらに置いておいたほうがよさそうだ……」


「り、龍翔様……?」


 渋面で呟く主におずおずと声をかける。龍翔の頭の中では、いったいどのことが巡っているのだろう。心当たりがありすぎて、不安しかない。


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