137 藍圭や初華との食事 その5


「大丈夫だ。もう、お前が心配することは何もない」


 よしよしと、大きな手のひらがあやすように明珠の髪を撫でる。長い指先は強張った心をほどくように優しい。


「す、すみませんっ! 大丈夫です……っ!」


 あわてて龍翔から離れ、背筋を伸ばして座り直す。幸いにも龍翔はそれ以上明珠にかまうことはなく、藍圭へと視線を移した。


「藍圭陛下。初華も明珠も、このように申しております。お互いに、己を責めるのはやめにいたしませんか?」


「義兄上……」


 藍圭の視線が迷うように揺れる。柔らかな笑みを浮かべたまま、龍翔が言を継いだ。


「大罪の償いは、罪を犯した者が支払うべきもの。それを曲げることは、国王である藍圭陛下であってもできません。ですから……。瀁淀と瀁汀が命を落としたのも、己の罪をあがなったゆえ。決して、陛下のせいではないのです」


「……っ!」

 龍翔の言葉に、藍圭が鋭く息を呑む。


 明珠は、一瞬、藍圭が氷の彫像と化してしまったのかと心配になった。愛らしい面輪は血の気が引き、唇がかすかにわなないている。


 だが、明珠だけでなく、龍翔も初華も黙して藍圭の言葉を待つ。ただ、初華が寄り添うように藍圭の小さな手を包むように握りしめた。


 そのまま、どれほどの沈黙が続いただろう。


「ほんとうに……」


 藍圭が、耳を澄ませていなければ聞こえないほどのかすかな声をこぼす。


「本当に、わたしのせいではないと思っていいのでしょうか……? 叔父上達があんなことをしたのは、わたしが晟藍国の次期国王にふさわしくないと見限ったからではなく……。叔父上達自身の強欲のせいだと……。その報いを受けたのだと思っても、罰が当たらないのでしょうか……?」


 きっと、藍圭の心の奥底では――。


 両親を亡くした時から、そんな疑問が渦巻いていたに違いない。


「もちろんですわっ!」


 藍圭が言うと同時に、間髪入れずに大きく頷いたのは初華だ。


「藍圭様に咎などあるはずがありませんわっ! 藍圭様が国王にふさわしくないなど……っ! そのようなこと、冗談でもおっしゃらないでくださいませっ!」


 言葉だけでは足りぬとばかりに、初華がぎゅっと藍圭を抱きしめる


「わたくしが晟藍国へ、いえっ、藍圭様のもとへ嫁ぐことを決めたのは、藍圭様とともに晟藍国を立て直したいと思ったからに他なりませんわっ! この方と添い遂げたいと、そう願ったからですのに……っ! 藍圭様はわたくしの目が節穴だとおっしゃいますの!?」


 初華の口調は怒っているのに、声はどうしようもなく潤んでいる。初華に抱きしめられたまま、藍圭がはじかれたようにかぶりを振った。


「い、いえっ! 決してそんなことは……っ!」


「不安がおありでしたら、ひとりで抱え込まずにわたくしにもお教えくださいませ! 国王にふさわしい自信がないのでしたら、これからつけていけていかれればよいのです! 藍圭様の治世はこれからなのですもの! もちろん、藍圭様おひとりではございませんっ! わたくしや浬角、魏角将軍達もいつだっておそばにおりますわっ!」

 藍圭をぎゅっと抱きしめて言い募る初華の声は、真摯な想いにあふれていて、聞いている明珠の胸まで締めつけられる心地がする。


「は、初華妃……っ」


 初華の腕の中で小さな呟きを洩らした藍圭が、何かを決意したように唇を引き結ぶと、初華を抱きしめ返す。


「申し訳ありません。情けないところを見せてしまいました。そうですね、わたしには初華妃をはじめ、支えてくれる人達がたくさんいる。初華妃がわたしの隣にいてくだされば、何があろうと、晟藍国を治めていける気がします。きっと、晟藍国の歴代国王の中でも、わたしほど妃に恵まれた者はおらぬでしょう」


「……お世辞をおっしゃってもだめですわ。浮かれたりなんて、しませんもの」


 藍圭と抱きしめあったまま、初華がふいと顔を背ける。


 髪に挿した珊瑚さんごがあしらわれた銀のかんざしが、しゃらりと澄んだ音を立てた。髪からのぞく耳は珊瑚の色がうつったかのようにうっすらと紅い。


「お世辞などではありません。嘘偽りのない本心です」


 生真面目な表情で告げた藍圭が、初華に回した腕に力を込める。


「改めてお願いします。わたしの力の及ぶ限り、幸せにすると誓いますから……。これからもずっと、わたしのそばにいてくださいますか?」


「もちろんですわ!」


 即答した初華が、くすくすと喉を鳴らす。


「藍圭様ったら、遅すぎますわ。わたくし達はもう、夫婦になりましたのに……。でも、嬉しゅうございます」


 甘やかな初華の囁きに、なんだか明珠の胸までどきどきしてくる。


 よく考えると、いやよく考えなくても夫婦の会話を部外者が聞いているなんて、よろしくないのではなかろうか。


 どうすればよいかと、おろおろと龍翔を振り返ると、こちらを見つめる黒曜石の瞳と視線があった。


 明珠にはよくわからぬ光をたたえた熱を宿したまなざしに、ぱくりと心臓が跳ねる。


「龍翔、様……?」


 いったいどうしたのだろう。

 龍翔ならば、初華と藍圭の仲睦まじさを誰よりも喜ぶに違いないのに……。


 明珠を見つめる龍翔のまなざしは、喜びや安堵ではなく、切なげなもどかしさに満ちている気がして、不安になってしまう。


 おずおずと呼びかけると、我に返ったように龍翔が姿勢を正した。ふいと視線が外される。


「すまぬ。初華と藍圭陛下の仲のよさにあてられてしまってな。つい、らちもない考えにふけってしまった」


 料理が並ぶ卓に視線を落としたまま、龍翔が吐息する。どことなく荒れた呼気は、胸中の懊悩おうのうを無理やり押さえつけているかのようで、明珠の心までざわめいてしまう。


「埒もない考え……、ですか?」


「ああ。……お前が気にするほどのことではない」


 ゆるりとかぶりを振った龍翔は、この話題はおしまいだと言いたげに唇を引き結ぶ。かたくなな横顔に、明珠の心がつきんと痛む。


 埒もない、と言いながらも龍翔のことだ。きっと、明珠では及びもつかない深遠な考えを巡らせているのだろう。

 明珠などに話しても益がないと龍翔が考える気持ちもわかる。けれど。


「いつか……。私にも、お教えいただけますか?」


 祈るように告げると、はじかれたように龍翔が面輪を上げた。

 

 驚きにみはられた黒曜石の瞳を見つめ、明珠は真摯に言葉を紡ぐ。


「季白さんの教本でしっかり勉強しますから……っ! もっともっといっぱい勉強したら、私もいつか……っ。龍翔様のお考えを教えていただいて、お支えできるようになれますか……っ!?」


 先ほど初華が、藍圭には初華だけでなく、浬角や魏角将軍もいると言ったように。


 季白や張宇や安理達のように、いつか明珠も、微力でも龍翔を支えられる存在になりたい。


  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る