137 藍圭や初華との昼食 その1


「明珠、周康。いま戻った。何も変わりはなかったか?」


「龍翔様、おかえりなさいませ」


 雷炎が晟藍国を出立し、瀁淀親子が急死してから二日後。


 王城の龍翔の部屋で周康とともに留守番をしていた明珠は、卓から立ち上がると、瀁淀親子の葬儀から返ってきた龍翔にあわてて駆け寄った。


 今日の龍翔の衣装はかなり地味な色合いだ。


 『花降り婚』のために、さまざまな準備をして龍華国を出立したものの、さすがに葬儀に参列にすることになるとは、誰も予想だにしていなかった。


 そのため、龍翔も玲泉達も、手持ちの衣装の中で最も地味なものを着て参列することになったのだが……。


 華やかな衣装に身を包んだ龍翔はまばゆいほどの美丈夫だが、控えめな色合いの衣装は衣装で、凛とした龍翔の美貌をいっそう引き立てている気がする。


「ご安心くださいませ。何事もございませんでした」


 明珠とは異なり、落ち着いた足取りで歩み寄ってきた周康が、恭しく一礼して龍翔に報告する。


「龍翔様こそ、何もありませんでしたか?」


 秀麗な面輪を見上げ、明珠は不安を口にする。


 龍翔に教えてもらったところによると、瀁淀と瀁汀の二人は、雷炎に《毒蟲》で殺害されたのだという。


 『花降り婚』の成就に晟藍国中が湧く直後の死亡であったため、大臣だったにもかかわらず、瀁淀と瀁汀の葬儀は晟藍国の高官達だけでひっそりと執り行われることとなった。


 雷炎はすでに晟藍国を出立しているものの、そんな事情があっただけに、龍翔達が出かけている間、ずっと心配していたのだ。


「大丈夫だ。何事もなかったぞ」


 明珠の心を読んだかのように、龍翔が頼もしい笑みを浮かべる。


「お前は、留守番の間、何をしていたのだ?」

 話題を変えるように問うた龍翔に答えたのは周康だ。


「お留守の間、明珠お嬢様はご本を読まれ、とても熱心に学んでおられました」


 明珠が読みふけっていたのは、季白特製の見習い官吏用の教本だ。最近、留守番を言いつかることが多いので、暗記するつもりで何度も読み返している。しっかり学べば、ほんの少しでも龍翔の役に立てる日が来るかもしれない。


「そうか。頑張ったのだな。だが、無理はするのではないぞ」


 柔らかな笑みを浮かべた龍翔が、子どもにでもするように、よしよしと頭を撫でてくれる。くすぐったくて嬉しいが、周康の前なので少し恥ずかしくもある。


「でも、龍翔様。よいのでしょうか? 私ばかり涼しいお部屋にいさせていただいて……。他の方は出航の準備をされているのでしょう?」


 『花降り婚』が成就した今、長々と晟藍国に滞在を続けるわけにはいかない。昨日から、出航のための準備が大急ぎで始まっている。


 王城の中は《氷雪蟲》がそこここに止まっていて涼しいが、屋外で準備にたずさわっている者は、暑い思いをしているに違いない。


 一昨日、昨日と雨天が続いていたが、今日はからりと晴れている。本格的に夏を迎えつつある今、遮るものの少ない港は暑いことだろう。


「心配はいらぬ。龍華国を出立する時と違い、今度の船旅は帰途だからな。準備については、お前が気にするほどのことではない。この後、季白達も港へ行くと言っていたし、何より、富盈ふえいが惜しげもなく物品を供出しているのでな」


 瀁淀と手を組んで木材の買い占めを行っていた大商人の富盈は、瀁淀が亡くなった途端、手のひらを返すように藍圭にすり寄ってきたそうだ。瀁淀を殺害した犯人はわからぬものの、自分まで始末されてはたまらないと考えたらしい。藍圭に重用されれば、身を守ってもらえると期待しているようだ。


「瀁淀と一緒になって藍圭陛下を苦しめ、『花降り婚』の妨害をしていたというのに、この期に及んですり寄ってくるとは……っ! 晟藍国一の商人と呼ばれていても、底の浅さが知れますね!」


 と季白が浬角りかくと一緒になって目を吊り上げていたが、使えるものは使うということで、富盈から差し出された品々やお金はありがたく使わせてもらっている。


 もちろん、そんなことで富盈の罪が消えるわけはなく、藍圭は今後、富盈を重用する気は欠片もないらしい。


 龍翔や明珠達は、船の準備が整い次第、明日にでも晟藍国を出立することになっている。


「では、龍翔殿下のお着替えが終わられましたら、わたしも季白殿と合流して港へまいります」


「ああ、頼む。明珠、隣室で着替えてくるゆえ、もう少し待っていてもらえるか? 着替えたら初華の部屋へ行こう。初華が、龍華国へ帰る前にお前とゆっくり話したいと言っておった。藍圭陛下もいらっしゃるそうだぞ?」


「えっ!? 初華姫様……あ、いえ。初華妃様がですか!?」


 驚きに、思わずすっとんきょうな声が飛び出す。


「ああ。菓子をたくさん用意すると気合を入れておった。もちろん、来てくれるだろう?」


「は、はいっ! もちろんですっ!」


 こくこくこくっ、と勢いよく何度も頷く。


 『花降り婚』の直後に会ったきり、王妃となって忙しくなった初華とは、一度も会えていなかった。藍圭にいたっては、『花降り婚』以来だ。


 晟藍国を出立すれば、次、二人に会える機会があるかどうかすら、わからないのだ。『花降り婚』の成就したお祝いを、ちゃんと伝えておきたい。


「では、少し待っておれ」


 龍翔が隣室へと足を向ける。周康とともに卓に戻った明珠は、季白特製の教本の続きを読もうと開く。が、嬉しさに心が弾んで、内容が頭に入ってこない。


 明珠の様子に周康が笑みをこぼす。


「ずいぶん、楽しみにしてらっしゃいますね」


「はいっ! ずっとお祝いを申し上げたいと思っていたので……っ! その……」


 勢いよく応じた声が、途中からしぼんでしまう。


「龍華国に戻ってしまったら、次、お二人に会える機会があるかどうかすら、わからないでしょう……? 晟藍国までは半月近くもかかってしまいますし、そもそも、その……。私がいつまで龍翔様にお仕えさせてもらえるか、わかりませんし……」


 話す声が途中から、潤みを帯びてしまう。


 龍翔の禁呪は一日も早く解けてほしいが、禁呪が完全に解かれたら、明珠はいったいどうなってしまうのか。


 優しい龍翔のことなので、すぐにお払い箱にされたりなどしないだろうが……。季白に、「ふう、これでようやく小娘に手をわずらわされることもなくなりますね。さあ、退職金は支払ってあげますから、とっとと実家へ帰りなさい!」と追い出される可能性は大いにありうる。


 うつむき、唇を噛みしめていると、困惑混じりの周康の声が降ってきた。


「いえあの、お嬢様……? 龍翔殿下がお嬢様を解雇されるなど、天地がひっくり返ってもありえないと思いますが……?」


 ゆっくりと顔を上げると、周康が真っ直ぐなまなさしで明珠を見つめていた。


「大丈夫です。龍翔殿下がお嬢様を手放されることは、決してありません!」


 いつも控えめな周康が、珍しくきっぱりと断言してくれる。


「周康さん……」


「それに、お嬢様も龍翔殿下のおそばを離れたいなんて、思われていないのでしょう……?」


「は、はいっ! それはもちろん……っ!」


 こくこくこくっ! と何度も頷く。


 『英翔』と名乗る少年姿の龍翔に仕えていた頃から、辞めたいと思ったことなんて、一度もない。


 周康が包み込むような柔らかな笑みを浮かべる。


「お嬢様にそれほど真摯に想っていただけるとは、龍翔殿下はお幸せでございますね」


「だって、龍翔様ほど素晴らしいご主人様はいらっしゃいませんから……っ!」


 力いっぱい告げると、なぜか周康の笑みが固まった。


「……同時に、たいへんお気の毒でもありますが……」


「周康さん……?」


 首をかしげたところで、いつもの青を基調とした衣装に着替えを終えた龍翔が隣室から戻ってきた。


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