131 お前にどれほど感謝すればよいのか その7


「す、すみませんっ」


 あわてて身を離そうとすると、名残惜しそうに龍翔の腕がほどかれた。

 懐から取り出した手巾でごしごしと涙をぬぐって座り直すと、こちらを見つめる玲泉とぱちりと視線が合う。途端、玲泉に甘やかに微笑まれた。


「明珠。きみは舞台で《龍》の前に飛び出して龍翔殿下を庇ったのが、あくまでも自分の意志だと……。殿下に命じられたわけではないというのかい?」


「も、もちろんですっ! 龍翔様がそんなことを命じられるわけがありませんっ! むしろ、その……っ! おとなしくしているようにという言いつけを破って、勝手をしてしまったのは私のほうで……っ」


 告げた瞬間、なぜか玲泉が吹き出した。


「ふっ、はははははっ! あーはははは……っ!」


 突如笑い出した玲泉を、明珠や龍翔だけでなく、全員が呆気あっけにとられた顔で何事かと見つめる。


 全員の視線を集め、ひとしきり笑い転げていた玲泉が、ようやく笑いをおさめ、目尻に浮かんだ涙を指でぬぐった。


「ああ、わたしをこれほど楽しませてくれるのは明珠しかいませんね。本当に、得難えがたい存在だ」


 玲泉がにこやかに微笑みかけるが、明珠はいったいなんと答えればよいのかわからない。玲泉に大笑いされるほど、とんちんかんなことを言ってしまったということだろうか。


 と、明珠から龍翔に視線を移した玲泉の面輪が引き締まる。


「心が決まりました。此度こたびの龍翔殿下の禁呪のこと――。広く公になるまでは、わたしの口からは決して他言せぬと誓いましょう」


「――何を、考えておる?」


 玲泉の誓いに、しかし龍翔の面輪は緩まない。むしろ、不審と警戒も露わに険しくなる。


「それほど警戒なさらないでください。単純なことですよ」


 龍翔の鋭い視線をいなすように、玲泉が肩をすくめる。


「龍華国へ戻ったわたしが、《龍》が禁呪に侵されたことを広めれば、それが真実であろうとなかろうと、龍翔殿下のお立場は危うくなることでしょう。ですが、そうやって龍翔殿下を追い落としたとしたとしても、明珠の心がわたしに向くとは思えません。むしろ、もし龍翔殿下が処刑されでもしたら、優しい明珠のこと、殿下のことが一生の心の傷になるのは目に見えております。それは、わたしの望むところではございませんからね。初華姫様も大切な兄上の不利になることは決してなさらぬでしょうし、わたしさえ口をつぐめば、晟藍国で起こったことが龍華国へ伝わる可能性はまずないでしょう。……ああ、ご安心ください」


 唇を引き結んで玲泉を睨みつける龍翔に、玲泉をがにこやかに微笑んでみせる。


「黙っている代わりに明珠をよこせと脅すつもりもございませんよ。脅したところで、屈して明珠を手放す龍翔殿下ではございませんでしょう?」


 龍翔の心を読んだかのように、玲泉が断言する。


「では、何がおまえの望みなのだ? 己に利なくば、そのような申し出はすまい」


 玲泉の真意を見抜こうとするかのように、龍翔の視線が鋭くなる。


 と、玲泉がにこやかに微笑んだ。まるで、新しい遊びをみつけたわらべのように、楽しげに。


「挑んでみたくなったのですよ」


「挑む、だと?」


「ええ。さようでございます」


 欠片も信じていなさそうな龍翔のいぶかしげな声に、玲泉がゆったりと頷く。


「女人にふれられぬという不自由さを除けば、蛟家こうけ嫡男ちゃくなんとして、わたしはいままで何ひとつ困ることなく、己の望むものを何であれ手に入れてまいりました。そのわたしが生まれて初めて自分から手に入れたいと欲したものを……。卑怯な手で手に入れたくはないのですよ。正々堂々と、誰はばかることなく己の力で掴み取りたいのです。それでこそ、心から満たされるというもの。己の力で道を切り開かれている龍翔殿下ならば、わたしの考えに共感くださるものと思いますが?」


 玲泉が挑むように真っ向から龍翔を見据える。龍翔もまた、決して目を逸らさない。


 二人の間で、斬り結ぶように視線が交差する。


「わたしがむざむざと大切な花をおぬしに奪わせると?」


「確かに、いまは出逢いが遅かった分、わたしのほうが不利と言わざるを得ないでしょう。ですが、人の心は揺れ動くもの。挑みもせずに諦める気はございません。何としても、手に入れてみせますよ」


 空気が紫電をはらんだかのように張りつめる。


 いったい龍翔と玲泉が何の話をしているのか、明珠にはいまひとつ掴めない。玲泉が禁呪のことを黙っていてくれるとわかって、ついさっきは安堵したのだが……。

 どこでどう、話が変わってしまったのか。


 だが、喉がひりつくような空気に口を挟むことすらできない。

 

と、不意に玲泉が明珠に向き直ったかと思うと、にこやかに微笑んだ。


「というわけで明珠。覚悟しておいてほしい。きみを――」


「ふぇっ!? か、覚悟ですか……っ!? わ、わかりましたっ! 『花降り婚』を乱した罰は、どんな罰であろうとちゃんと受けますっ!」


 ぴんっと背筋を伸ばし、震えそうになるのをこらえて告げると、玲泉が目を見開いた。かと思うと、ぷっと吹き出される。


「明珠。わたしと龍翔殿下の話をちゃんと聞いていたかい?」


「え……っ!? そ、そのっ、禁呪のことを黙っていてくださるんですよねっ!? あのっ、私ごときがお礼を申し上げるのはおこがましいとわかっていますけれど……。それでも、本当にありがとうございますっ!」


 卓に額がつきそうなほど深々と頭を下げると玲泉の溜息が降ってきた。


「まったく……。明珠の純真さにはかないませんね。それも得がたい魅力のひとつではありますが」


「それについては大いに同意するが、お前の不埒ふらちな言葉で明珠の耳を汚してみろ。即座に叩き斬ってやるぞ」


 龍翔と玲泉がふたたび睨み合う。耐えきれないとばかりに声を上げたのは季白だった。


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