131 お前にどれほど感謝すればよいのか その4


「おや。情にあついと評判の張宇殿が、無慈悲なことを言うものだね。あれほどの大怪我を負っていたんだ。龍翔殿下が治していらっしゃるだろうことは承知だが、わたしの大事な明順のことが心配でたまらなくてね。せめてひと目、顔を見るくらいは許してくれてもよいだろう?」


「明順をご心配くださるお気持ちはありがたく存じます。ですが、明順のためを思うなら、いまはゆっくりと休ませてやっていただけませんか? 玲泉様のように身分の高い方がいらしては、明順も気が休まらぬことでしょう」


 誠実に対応する張宇の声は穏やかだが、決して玲泉を通すものかという気概きがいが感じられる。と、玲泉がくすりと笑う声がした。


「身分の高さでいうならば、わたしより遥かに高い龍翔殿下が、ずっとおそばにつきっきりになっていらっしゃるのだろう? それこそ、気が休まらないのではないかい?」


「っ! 龍翔様は明順の主です! ご心配なさるのは当然ではありませんか!」


「わたしだって、この上なく明順のことを心配しているよ? なんせ、わたしにとって明順は唯一の相手だからね」


 玲泉の声音に甘やかな響きが宿る。


「張宇殿も、大怪我を負って蒼白な顔で気を失った明順の姿を目にしただろう? あの姿にどれほどの衝撃を受け、胸が潰れる思いをしたか……。張宇殿も叶うことなら、龍翔殿下とともに明順についていってやりたかったのではないかい?」


「それは、そうですが……。ですが、わたしの役目は藍圭陛下と初華姫様を『花降り婚』の最後までお守りすること。それに、龍翔様が明順をつれていったのなら、絶対に大丈夫だと信じておりますから」


 一瞬揺れた張宇の声が、龍翔への信頼に強さを取り戻す。


「なるほどなるほど。さすが張宇殿、真摯に龍翔殿下を信じてらっしゃるということだね。素晴らしい敬愛ぶりだ。……が、わたしは龍翔殿下の従者ではないのでね。自分の目で明順を確かめないことには、心から安心できないんだよ。たったひと目でいいんだ。わたしのことを哀れと思うなら、ほんの少しだけ明順の顔を見せてもらえないかい?」


「ですが……」


 切なげな玲泉の声に、張宇が口ごもる。と、扉の向こうで新たな声が加わった。


「張宇! 玲泉様にほだされている場合ではありませんよ! 玲泉様。申し訳ございませんが、明順に会わせることはいたしかねます。差し添え人の大役、誠にお疲れ様でございました。玲泉様もお疲れのことでございましょう。玲泉様が来られたことはわたしから龍翔様へお伝えいたしますので、いまはお引き取りくださいませ」


 張宇を叱責し、言葉遣いは丁寧ながら有無を言わさぬ口調で告げたのは季白の声だ。玲泉の吐息がかすかに聞こえた。


「まったく、次から次へと、明順の守りは本当に固いものだね。だが、季白殿。お疲れというのなら、主役のおひとりであった初華姫様こそ、体調を崩されぬよう、ゆっりとお休みになるべきだろう? 『花降り婚』が成就したいま、初華姫様は押しも押されもせぬ晟藍国の正妃。わたしなどより、初華姫様こそ、一介の従者を見舞っているお暇はないと思うけれどね?」


 玲泉の言葉に、明珠の右手を握ったままの初華の眉が、不愉快そうにきゅっと寄る。


「初華姫様が明順の見舞いに来られているのは、わたしの耳にも入っているよ? 初華姫様様ならよくて、わたしは駄目だという明確な理由があるなら、ちゃんと教えてほしいものだね?」


 玲泉の声が圧を増す。だが、季白の返事はにべもない。


「理由なら、はっきりしております。玲泉様が明順にお会いになれば、無用な混乱が巻き起こるのは必至でございますので。龍翔様の健やかな心身をお守りするためにも、ご負担になりそうな事態は決して起こすわけにはまいりません!」


「龍翔様のご負担、ね……」


 季白の言葉尻を捕らえた玲泉が、くすりと笑みをこぼす。


「それを言うのなら、ますます明順と会わねばならないね。『花降り婚』での龍翔様の突然のご不調と、明順のあの力……。何か、わたしに知らされていない事情があるのは明らかだろう? わたしも無責任な噂を流したくはないが……。真実を教えてもらえないことには、どんな流言飛語が広まることやら。考えるだに恐ろしいね」


「っ!」


 玲泉の言葉に鋭く息を呑んだのは、明珠か龍翔か、それとも季白と張宇か。


 わからない。だが、刃を喉元に突きつけられたような緊張に、明珠は息ができなくなる。


 と、明珠の手を握る龍翔の指先に力がこもった。明珠の強張りをほどくかのようなあたたかな力強さ。


 扉の向こうで、明珠が聞いたことがないほど、硬く冷ややかな季白の声がする。


「玲泉様。この際はっきり申し上げます。龍翔様にあだなすとなれば、たとえ玲泉様といえど――」


「季白、張宇。そこまででよい」


 扉を振り返って放たれた龍翔の静かな声に、季白がぴたりと口をつぐむ。


「玲泉、おぬしの言いたいことはわかった。そこまで望むのならば、明順に会わせてやろう。だが、しばし待て。明順にも支度する時間がいる」


 扉を向いた龍翔の横顔は、緊張に硬く張りつめている。が、明珠を振り返った表情はいつものように優しい。


「すまぬ。お前には負担をかけてばかりだが……。ああまで言われては、玲泉を迎え入れぬわけにはいかぬ。が、お前の夜着姿を玲泉に晒すなど、言語道断だ。ひとまず、お仕着せに着替えてくるといい」


「は、はい……っ!」


 手を放した龍翔に促され、明珠はこくりと頷くと自分の長持ちが置かれている衝立ついたての向こうへ駆けこむ。


 丁寧に畳んで長持の上に置いておいた少年従者のお仕着せを手に取り、どうしようと悩む。


 明珠がゆっくり休めるようにという気遣いか、もしくは身体を診てくれた時に邪魔だったのだろう。少年従者に変装する時はいつも胸に巻いているさらしがほどかれている。


 お仕着せを着るのならさらしも巻くべきだが、玲泉を待たせているのに、時間をかけては申し訳ない。何より、衝立で見えないとはいえ、同じ部屋に龍翔がいるというのに、夜着をはだけてさらしを巻くのは気恥ずかしい。


 数瞬迷い、明珠は結局、龍翔に言われたとおり、お仕着せを着るだけにする。初華も玲泉も、明珠の正体が娘であると知っているのだ。なら、さらしを巻いていなくても問題はないだろう。


 手早くお仕着せを羽織り、帯を結ぶ。寝乱れていた髪は、龍翔に贈ってもらった絹の組紐で束ね直した。


「す、すみませんっ! お待たせいたしました!」


 衝立から飛び出して詫びると、


「そんなに急がずともよかったというのに……。玲泉など、いくらでも待たせてやればよいのだ」


 と、眉を寄せた龍翔に大真面目に告げられた。龍翔の冗談はときどきわかりにくすぎる。


「そんなわけにはまいりませんでしょう!? 私ごときが龍翔様や初華姫様、玲泉様をお待たせするなんて……っ!」


 並んで立つ龍翔と初華のもとへ駆け寄りながら答えると、「こちらだ」と龍翔に手を取られた。卓へと歩み寄りながら、龍翔が扉の向こうへ声をかける。


「玲泉、入ってよいぞ。季白と張宇は、玲泉が余計な真似をせぬよう、目を光らせておけ」


「ひどいですね。ともに差し添え人の大役を務めた仲なのですから、もう少し信用してくださっても罰は当たらぬと思いますが」


 芝居がかった様子で哀しげな吐息をこぼしながら、張宇が開けた扉を通って、玲泉が入ってくる。


「人を脅しておいて、信用してくれとは。自ら信頼を地の底にまで失墜させておいて、どの口が言う?」


 刃のようにするどい龍翔の声音を真正面から浴びせられても、玲泉は欠片もたじろぐ様子がない。それどころか。


「ああ、明順。きみの無事をこの目で見られて、わたしの心がどれほどの喜びにあふれているか。言葉を尽くしても伝えられる気がしないよ。本当に、無事でよかった……。胸が潰れそうほど心配したんだよ?」


 まるで龍翔の存在など目に入っていないかのように、明珠へにこやかに微笑みかける。


 さっと一歩前へ踏み出した龍翔が、玲泉の視線を遮るように明珠を背に隠す。だが、玲泉もその程度では引き下がらない。


「明順。わたしの心の安寧のために、愛らしいきみの姿をもっとよく見せてくれるかい?」


 真っ直ぐ明珠へと歩み寄ろうとした玲泉を、さっと前へ出た張宇が腕を伸ばして押しとどめる。同時に、龍翔と初華が申し合わせたように手のひらを玲泉へ向けて、止まるように示した。


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