131 お前にどれほど感謝すればよいのか その1


 誰かが、明珠を呼んでいる。


 低くかすかな、祈るような声。

 耳に心地よく響くその声は、けれど同時に聞く者の心を締めつけるように切なげで。


 どうか哀しまないで、と明珠は夢現ゆめうつつに願う。


 そんな声を聞きたいわけじゃない。


 大切な人にはいつも笑顔でいてほしくて。つらくて苦しい顔なんてさせたくなくて。


 だから――。


「う……」


 深い眠りから浮かび上がった拍子に、かすれた声をこぼれる。途端、大きくあたたかな手のひらに、ぎゅっと手を握られた。


「明珠っ!」


 いままで聞いたことがないほどの切羽詰まった龍翔の声を耳にした途端、一瞬で頭が覚醒かくせいする。


 そうだ。なぜか《龍》が暴走して、龍翔が苦しそうで……。


 なんとか無事に『花降り婚』が終わったことに安堵して、そのまま龍翔の腕の中で気を失ってしまって……。


「龍翔様っ!」


 鉛のように重い身体をなんとか起こそうとした瞬間、抱き起されたかと思うと、寝台のすぐそばに腰かけていた龍翔に、息が詰まるほど強く抱きしめられた。


「すまぬっ! わたしのせいでお前を……っ! どれほど詫びても足りぬとわかっている! それでも……っ!」


「ふぇっ!? あ、あのっ、龍翔様っ!?」


 身を乗り出し、力いっぱい明珠を抱きしめる龍翔に、すっとんきょうな声を上げる。


 起き上がった拍子に、自分が寝かされていたのが龍翔に与えられた部屋の立派な寝台だと気づく。


 龍翔の寝台で眠っていたなんて、いったいこれはどういう状況なのだろう。さっぱりわけがわからない、というか。


「り、龍翔様っ、くるし……」


「す、すまん!」


 このまま抱き潰されてしまうのではないかと思わず声を洩らすと、龍翔の腕がぱっと緩んだ。ほっとするも束の間、今度は壊れ物を包むかのように、そっと優しく抱きしめられる。


「どうだ、具合は? つらいところや苦しいところは……? 脈をとった季白も、着替えさせた萄芭も、特に異常はないようだと言っていたが……」


「えっと……」


 心配でたまらないと言いたげな龍翔の声に、明珠は抱きしめられたまま、そっと左手を動かしてみる。


 龍翔が《癒蟲》で治してくれたおかげだろう。どこも痛くないし、指先までちゃんと動く。


「大丈夫ですっ、どこも痛くありません! 龍翔様が治してくださったおかげです! 本当にありがとうございます!」


 告げた途端、龍翔の腕に力がこもり、明珠の肩に秀でた額が押しつけられる。


「よかった……っ! 本当によかった……っ!」


「り、龍翔様っ!?」


 明珠の右肩にぐっと顔を押しつけられているため、龍翔の表情は見えない。


 けれど、いつも凛とした声がまるで泣いているかのように潤んでいて。こんな龍翔を見るのは、初めてで、いったいどうすればいいのかわからない。


 明珠が知っている龍翔は、いつだって凛々しくて優しくて、決断力に富んでいて……。


 涙を流しそうなところなんて、見たことがない。

 というか、それより。


「龍翔様っ! 龍翔様は大丈夫なんですかっ!? あんなにおつらそうになさっていて……っ!」


 苦しげに膝をついていた龍翔の姿を思い出すだけで、明珠の胸が痛みだす。


 決して他人に弱いところを見せぬ龍翔が、苦痛も露わに呻いていたのだ。よほどのことだったに違いない。


 龍翔の様子を確認しようとぐいぐいと押し返すも、引き締まった腕は緩まない。それどころか。


「お前が癒してくれたのだ。不調など、残っているはずがないだろう?」


 顔を上げ、きっぱりと言い切った龍翔が、明珠を抱きしめる腕にますます力を込める。


「そ、それはよかったですけどっ、その……っ!」


 ほっとすると同時に、どんどん顔が熱を帯びてくる。龍翔が無事だったのは涙が出そうなくらい嬉しいが、これは……。


 そろそろ放してもらえないだろうかと、龍翔を押し返して気づく。指先にふれる布地がいつも以上に豪華だ。まるで、一面に刺繍がほどこされているかのような……。


 と、そこで、龍翔がまだ『花降り婚』のための金の《龍》の刺繍がほどこされた盛装のままだとようやく気づく。


「り、龍翔様っ!? まだお着替えなさってらっしゃらないんですか!? あのっ、お放しくださいっ! こんな高価なお召し物のままで……っ! って、きゃあぁぁぁぁっ!」


「どうしたっ!?」


 突然、とんでもない大音量で悲鳴を上げた明珠の顔を、腕を緩めた龍翔が覗き込む。が、明珠はそれどころではなかった。


「お、おおおおおお召し物に汚れが……っ!? こ、これって私の血ですよね……っ!?」


 龍翔が纏う濃い青の衣に、点々と赤黒い染みがついている。


 よりによって、明珠がいままで見た中で一番高価な、金の《龍》の刺繍が施された衣を汚してしまうなんて。


 がくがくと身体が震え出す。こんな高価な着物、人生を百回やり直しても弁償できないだろう。


「も、もももももうしわけ……っ!」


 歯の音が合わなくて、ろくに謝罪を紡ぐことすらできない。


「よい。着物のことなど気にするな。お前を傷つけてしまったことに比べれば、こんなもの――」


「こ、こんなものでは決してありませんでしょうっ!? 金糸で《龍》が刺繍された衣装ですのに……っ!」


 主の言葉だというのに、思わず途中で遮って反論してしまう。

 自分がしでかしてしまったことの重大さにくらくらして、目の前が暗くなってくる。


 もう一度気を失ったら、実は夢でしたということにならないだろうか。


「明珠」


 震えていると、包み込むようにぎゅっと強く抱きしめられた。


 耳朶じだを震わす力強い声と、ぎ慣れた高貴な薫りにほんのわずかに理性を取り戻す。


「落ち着け。汚れなど、洗えばすぐに落ちる。何より、人の命と着物なら、どちらのほうが大切かなど、考えずともわかるだろう? お前が助けてくれたゆえ、いまわたしがこうしていられるのだ。いくら感謝してもし足りん。それに比べたら、着物の汚れなど、たいしたことではない」


 龍翔の大きな手のひらが、あやすように明珠の頭や背中を撫でてくれる。


「お前には、どれほどの感謝を捧げればよいのか……っ! 本当に、どこもつらくはないか? 少しでも不調を感じるところがあれば、遠慮なく教えてほしい。もしお前に髪ひとすじでも傷が残っていたら……。我が身を切り裂いて詫びても足りん」


 ふたたび明珠をぎゅっと抱きしめた龍翔がとんでもないことを言い出し、度肝を抜かれる。


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