130 虎と鼠の酒宴 その1
「ら、雷炎殿下……。あの……?」
『花降り婚』が終わったのち。「わたしがいては、藍圭陛下と初華姫様にお気を遣わせてしまいましょう。夜の祝宴にはまた参りますゆえ」と王城ではなく、夜に催される祝宴までの数刻を瀁淀の屋敷で過ごすこととした雷炎は、まだ日も高いうちから瀁淀からの
薄物を纏った美しい
瀁淀の心情を考えてみれば当然だろう。藍圭を亡き者にし、息子の
だが、『花降り婚』の妨害は失敗し、最後の手段として藍圭を暗殺しようとしていた
兄殺しという大罪を犯したにもかかわらず、瀁淀の計画は水泡に帰したことになる。
まあ、螘刑については、実際は瀁淀の指示ではなく、雷炎の指示で動いていたのだが、それを瀁淀に教えて罪悪感を軽くしてやる気など、雷炎には
たっぷりと間を取り、瀁淀の不安を高めてから、雷炎はおもむろに口を開く。
「俺がなぜ、これほど上機嫌かわかるか?」
「は、はい? いえっ、あの……っ」
瀁淀にとっては思いがけない問いかけだったのだろう。間抜けな声を上げ、視線を彷徨わせる。
「そ、その……。わたしどもの饗応にご満足いただけているゆえでしょうか……?」
「
てんで見当違いの返答に、叩き斬るようにぴしゃりと告げると、ひぃぃっ、と悲鳴を洩らした瀁淀が「申し訳ございませんっ!」と椅子から転げ落ちるように床に平伏した。父に
「俺が機嫌がいいのは、この目で《龍》を見ることができたゆえだ。決してお前の饗応に満足しているわけではない」
ほんの少し圧を強めただけで、瀁淀と瀁汀の丸めた背中が面白いほどに震える。両脇から雷炎にしなだれかかっていた酌女達も身を強張らせた。
と、雷炎は圧を霧散させて口元を緩めると、杯を持っていないほうの左手で酌女を抱き寄せる。
「なに、それほど怯える必要はない。さあ、俺と瀁淀殿達に
雷炎がいま吞んでいるのは遠い異国から船で運ばれてきたという葡萄で作った珍しい酒だ。
味わい深いとは思うものの、正直、雷炎の好みではない。
が。先日の瀁淀殿の屋敷での
偶然とはいえ、今日も葡萄酒が供されたのは幸運だった。
――黒にも近い深い葡萄色は都合がいい。
雷炎は酌女が
「俺とおぬしは同じ杯につがれた酒も同じ。一蓮托生の身であろう?」
瀁淀の警戒心を解くべく、にこやかに微笑む。
「一度の失敗程度で見限るようなことはせぬ。さあ、新たな固めの
「ら、雷炎殿下にそのようにおっしゃっていただけるとは、ありがたき幸せ……っ! もちろんいただきます……っ!」
雷炎が差し出した杯を、膝でにじりよって受け取った瀁淀が恭しく受け取り、一息に飲み干す。
次いで雷炎がふたたび葡萄酒を注いだ杯を、瀁淀から受け取った瀁汀も、緊張した面持ちで一息に飲み干した。
「おや……。ちょうど、いまので最後だったか」
空になった瓶子を卓へ置くと、瀁淀が心得たように口を開く。
「お気に召したのでしたら、もう一本持ってまいりましょう。おい――」
「いや、もう酒はよい」
酌女に声をかけようとした瀁淀を押し留め、両脇に侍る酌女に告げる。
「お前達は先に俺の部屋へ下がっておけ。俺もすぐに行く」
「かしこまりました」
「お待ちしておりますわ」
雷炎の命に、
酌女達が部屋を出て行き三人きりになってから、雷炎は悠然と椅子の背にもたれると、いまだにひざまずいたまま瀁淀と瀁汀を
「さて、瀁淀」
太ってたるんだ醜悪な身体を見下ろし、雷炎は威圧的に声をかける。
「たったいま、今後も手を組むことを約束したわけだが……。未来の利益は脇において、いままでの清算をしようではないか」
椅子から身を乗り出し、瀁淀の顔を覗き込むように視線を向ける。
「わざわざこの俺に晟藍国まで足を運ばせておいて、手ぶらで帰させる気ではなかろうな?」
「も、もちろんでございます……っ!」
脂汗をたらしながら、瀁淀が壊れた人形のようにがくがく頷く。
「雷炎殿下のお望みのものは、美酒でも美女でも金銀財宝でも、なんなりとご用意いたしますっ!」
「おや。最初の約束では、手に入れられるものはもっと違うものだったはずだがな?」
首をかしげて問うと、瀁淀の身体がひときわ大きく震えた。瀁汀とともに、震えながら床に額をこすりつける。
「誠に……っ! 誠に申し訳ございません……っ! そ、そうですっ! あの子亀が悪いのですっ! 何の力もない
「ほう? 己の無能を棚に上げて、他人を
「め、めめめ滅相もございませんっ! そんなつもりはまったく……っ! わ、わたしの不徳の致すところでございますっ! 雷炎殿下の
ぶるぶると震えながら、瀁淀が詫びを口にする。
「口では何とでも言える。おぬしの口は
雷炎は
「こちらは大切な従者を喪ったのだ。当然ながら、埋め合わせはしてくれるのだろうな?」
剣も術の腕もともに一流だった螘刑を喪ったのは、正直惜しい。前国王夫妻が滞在していた離城をひとりで落としたゆえ、今回もひとりで藍圭を始末できるかと踏んでいたが……。
まさか、浬角はともかく、龍翔の従者にあれほどの
もし螘刑を止められる者がいるとすれば、龍翔の両翼の片方として高名な張宇かと思っていたが、一対一で正々堂々と勝負するならともかく、足手まといの藍圭や初華を守りながらでは、螘刑に分があると予想していた。
至近距離で《蟲》を放ちながら戦う螘刑に勝てる剣士はそうそういない。しかも、十数匹もの《蟲》が狙うのは戦う本人だけではなく、周りの護衛対象だ。周りを守ろうとすれば、どうしても螘刑への対応がおろそかになる。
実際、張宇は螘刑と禁呪使いが放った《刀翅蟲》から藍圭達を守るのに手いっぱいで、浬角の助太刀に駆けつける余裕すらなかった。
離城で浬角と剣を交わした螘刑の言では、浬角の腕前は螘刑には及ばないということだった。
ならば、力押しでも勝てると踏んだのだが、龍翔の従者に張宇に匹敵するほどの
晟藍国水軍の鎧に身を包んでいた見たことのない顔の男だったが、龍翔の従者で間違いあるまい。もし晟藍国の兵ならば、離城を襲撃した際に手合わせしていたはずだ。
螘刑と戦っていた男の動きは、明らかに場慣れしていた。しかも、単に剣の腕が立つだけではない。螘刑が放つ《蟲》にも即座に対応していた動きは、明らかに術師と戦うことに慣れていた。平和な治世が続いていた晟藍国では、あれほどの手練れはなかなか育つまい。
第一皇子派と第三皇子派のどちらにもに
いったいどこで見つけてきたかは知らないが、優れた者を見出し忠誠を誓わせることもまた、才能のひとつだ。何より。
「まさか、
「な、なんでございましょう……?」
雷炎の低い呟きに、瀁淀がいぶかしげな声を洩らす。「いや」と雷炎は
まさか、解呪の特性があれほど凄まじいとは、予想だにしなかった。
あれほど大量に飛んでいた《蟲》を、一瞬ですべて還してしまうとは。
滅多なことでは驚かぬと自負する雷炎でさえ、思わず息を呑んで目を
螘刑がやられてしまった原因も、突然消えた蟲に驚き動きが鈍ったところを、龍翔の従者にとどめを刺されたためだ。
震雷国の宮廷術師のひとり、
だが、今日までの雷炎は、それが重要だと思ったことなどなかった。
解呪の特性など、単に術を解くのが他人より優れているにすぎぬ、と。
だが、あれほどの《蟲》を一瞬で消すことができるのなら。
「……欲しいな」
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