129 帰路の船


「初華姫様、お手をどうぞ」


 舞台に備えつけられたきざはしから、藍圭が往路に使った船に乗り移ろうとする初華に、張宇は手を差し伸べた。


 本来なら、差し添え人である龍翔か玲泉がするべきだが、龍翔は気を失った明珠を連れて先に王城へ戻っているし、玲泉は女人にふれることがかなわないため、張宇が担うこととなった。


 初華ひとりなら、危なげなく乗るに違いないが、初華はいまは藍圭を支えている。


 傍目はためには仲睦まじく寄り添っているように見えるが、実際のところは藍圭ひとりでは立っていられぬほど疲れ果てているのだろう。


 無理もない。幼い身で命を狙われながら《霊亀》を喚び出し、舞台に立ち続けたのだ。だが、民衆の目がある間は決して膝を折ったりはすまいと、気丈にふるまっている。


「ありがとう、張宇。さあ、藍圭様。足元にお気をつけくださいまし」


 初華に手を貸すふりをしながら、張宇は民衆からは見えない角度で藍圭を支える。


 行きとは異なり、『花降り婚』が終わったあとは初華が藍圭の船と馬車で王城に戻るのは、あらかじめ決められていた内容だ。


 座席に初華と寄り添って座った藍圭が、ようやくひと息つけたと言いたげに疲れ果てた吐息をこぼす。だが、覆いのない船の上では、まだ民衆の視線がある。藍圭が本当に気を抜けるのは、馬車に乗ってからだろう。


 藍圭と初華が舞台を下り、頭上を待っていた白銀の《龍》が姿を消しても、民衆の熱気はいまだに冷める様子がない。


 刺客が乱入し、とんでもない混乱となったものの、《霊亀》と《龍》が舞い、藍圭達を言祝ことほぐかのように虹までかかったのだ。参列していた者達の気持ちがたかぶっておさまらぬのも当然だろう。


 張宇とて、緊張を緩めれば安堵と感動に目が潤みそうだ。


 藍圭と初華に続き、玲泉に魏角将軍と浬角、安理と周康、萄芭も船に乗り込んでくる。


 周康が《幻視蟲》で見えないようにしている刺客の死体は、民衆の船が引けてから処理するのだろう。


 黒幕につながる手がかりが見つかればよいが、おそらく可能性は低いだろう。禁呪使いの居場所も気になるが、この状況で見つけることはかなうまい。


 魏角将軍の指示で兵達がかいを握り、船が動き出す。


「藍圭陛下、初華姫様。大役、誠にお疲れ様でございました。『花降り婚』を成就された藍圭陛下のご立派なお姿にわたしはもうっ、もう……っ!」


 藍圭の前に片膝をついた魏角将軍が、感涙にむせび泣かんばかりの潤んだ声で告げる。浬角もいまにも男泣きしそうなのをこらえているような顔で唇を引き結んでいた。


 魏角の言葉に、藍圭が小さく笑みをこぼす。


「顔を上げてくれ、魏角。『花降り婚』を成就でき、わたしや初華姫様が無事でいられたのは、わたしだけの力ではないよ。お前達が、しっかりとわたしを守ってくれたからだ。心から感謝する」


「なんというもったいないお言葉……っ!」


 藍圭の言葉に、涙腺が限界を迎えたらしい。魏角と浬角がそろってむせび泣く。


 張宇もまた、こぼれそうになる涙を唇を引き結んでこらえた。藍圭に仕えているわけではない自分でもこうなのだから、藍圭が生まれた時から見守ってきた魏角と浬角は、どれほどの感動が胸に湧き上がっているだろう。


「魏角、浬角……っ」


 困ったように呟いた藍圭の面輪も、いまにも泣き出しそうに声が震えている。


 藍圭や魏角父子だけではない。萄芭も涙がこぼれそうなのか、そっと手巾で目元をぬぐっている。


 もらい泣きをしたのか、周康までもが目を潤ませていた。さしもの安理さえ、珍しく茶化すことなくじみじみとした様子だ。


 だが、ただひとりだけ。


 玲泉だけが、まるでここではないどこかを見ているかのような呆然とした表情で座していた。


 心ここにあらずと言わんばかりのぼんやりとした表情は、いつもの優雅で怜悧れいりな玲泉とは別人のようだ。


 刺客の襲撃がそれほど衝撃的だったのだろうか。


 そう考え、張宇はすぐ己の推測を否定する。


 先ほどの玲泉は襲い来る《刀翅蟲》達に、的確に対応していた。名家・蛟家の嫡男ならば、荒事に巻き込まれる事態もさほどないだろうに、玲泉の動きは張宇が舌を巻くほど的確だった。


 ならば、決して襲撃に驚いて放心したというわけではあるまい。


 では、龍翔が《龍》を喚ぶと同時に、膝をついた理由について考えているのだろうか。


 じわりと張宇の背中に冷や汗がにじむ。


 くわしい事情については、龍翔自身に聞いてみなければわからないが、龍翔の急変が《龍》を喚んだことによるものだということは、誰の目が見ても明らかだった。


 いまは『花降り婚』が終わった安堵と、藍圭を心配するあまり、初華も気にしてはいないが、落ち着けば必ずやいったいどういうことだったのかと龍翔を問い詰めるに違いない。


 龍翔の味方である初華ならば、最悪、龍翔が禁呪に侵されていることを伝えてもよい。初華に余計な心配をかけなくない龍翔は禁呪のことを初華に秘密にしているが、この状況では、黙っていたほうが初華の心に負担をかけてしまうだろう。


 だが、明珠を巡って敵対する関係である玲泉に、龍翔が禁呪に侵されていることを知られるのは致命的だ。


 禁呪のことを黙っている代わりに明珠をよこせと強要される可能性は大いにある。


 龍翔が明珠を手放すわけがないが、ならば玲泉は、禁呪のことを周りに伝え、龍翔を失脚させればいいだけだ。


 第一皇子派といい、第三皇子派といい、龍翔を追い落としたいと願っている者は山といる。禁呪のことを知られれば、どんな言いがかりをつけて失脚させられるか、わかったものではない。


 本人である龍翔も、弁の立つ季白もどちらもいないというのに、もし、ここで玲泉に問い詰められたら何と答えればよいのか……。


 張宇は頭を抱えて途方に暮れたくなる。張宇では、剣の腕前ではともかく弁舌で玲泉を退けることは天地がひっくり返っても無理だろう。


 嘆息したい気持ちをこらえ、張宇はそっと視線を巡らせる。


 もし玲泉に問い詰められたら、淡閲で玲泉に助けられた恩義がある周康は板挟みになって困り果てるだろう。


 残る味方はは安理だけだが……。


 安理なら、口でも玲泉と渡り合えるだろうが、性格的に不安が残る。


 龍翔の不利になるようなことは口が裂けても言わないだろうが、だが、逆にありもしないことばかりを面白おかしく話そうだ。それはそれで頭が痛い。


 心のうちを読み取ろうと、張宇が探るようなまなざしを向けても、玲泉は気づいていない様子でぼんやりと水面みなもを見つめている。


 ふだんとあまりに違う玲泉の様子は気にかかるが、叶うなら王城に着くまでこのまま無言を貫いてほしいと、張宇は願わずにはいられなかった。


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