126 『花降り婚』の舞台にて その5
「ひっ!」
突然の
誰かが明珠を呼んだ気がするが、耳元で渦巻く風の音と蟲達の羽音でろくに聞こえない。
無我夢中でしがみついたので気づかなかったが、左腕が《龍》の
だが、怪我なんてかまっていられない。
「正気に戻って……っ! お願いっ、龍翔様を傷つけないで……っ!」
空中で暴れ回る《龍》から振り落とされまいとしがみつきながら、必死に願う。
《龍》の牙に傷つけられた傷口から、おぞましい禁呪の気配が明珠の中に流れ込んでくる。
意識も何もかも黒く塗り潰すようなこの気配を、知っている。
蚕家で奉公していた時、明珠を乗っ取り、龍翔を害そうとさせた禁呪の気配だ。
『花降り婚』に出立してから、龍翔が《龍》を喚んだことなどないのに、いったいいつ仕込まれたのか。わからない。けれど、今は考えるどころではない。
「お願いっ、戻って……っ!」
《龍》を抱きしめ、祈るように告げる。
ようやく辿り着いた、大切な『花降り婚』なのだ。藍圭と初華の幸せな第一歩なのだ。
それを、壊させたりなんてしない。何より――。
「龍翔様を、傷つけたりなんてさせないんだから……っ!」
龍翔を助けるためならば、左腕が使い物にならなくなったっていい。それで、龍翔が無事でいられるというのなら。
「禁呪なんかに負けないで……っ!」
明珠の言葉に、
「ぐぅっ!」
激しい動きにさらに腕が傷つき、珠のような血が紅玉のように宙に散る。
痛い。怖い。今すぐ腕をほどいてしまいたい。
けれど、龍翔も《龍》も、いままさに禁呪と戦っている。
龍翔だけではない。藍圭も初華も、張宇達も、誰もが『花降り婚』を成就させようと戦っているのだ。
明珠がわずかでもその助けになれるというのなら、我が身を
「戻って……っ!」
左腕はもう、しびれて感覚がない。禁呪に侵され、意識が遠のきそうだ。それでも《龍》を抱きしめる腕は緩めない。
着物の合わせに忍ばせている守り袋の中の龍玉の硬さを胸元に感じる。
「私ができることなら、何だってするから! だからお願い……っ! 禁呪を打ち払って――――っ!」
心の奥から湧きあがる祈りのままに叫んだ瞬間。
――あれほどうるさかった蟲達の羽音が、ふつりと消えた。
視界を埋めるほど飛び回っていた《刀翅蟲》や《盾蟲》達が消えたのだと理解するより早く、明珠の左腕を
「あ……」
ずるり、と力が入らなくなった身体が《龍》からすべり落ち、重力に囚われる。
このまま、舞台に叩きつけられるのだろうか。せめて、水の上ならいいのに。
闇色からいつもと同じ空の碧に戻った《龍》の瞳を見ながら、
ごうっ、と耳元で風が鳴る。数瞬の浮遊感のあと。
「明珠っ!」
不意に身体に衝撃が走り、明珠は龍翔の力強い腕に抱きとめられた。
ひとりでは勢いを殺しきれなかったのだろう。よろめいた龍翔を、両脇から季白と玲泉が支える。
「なんという無茶をするっ!? これほど……っ!」
まるで自分が刃で貫かれたように顔をしかめたの龍翔が、何匹もの《癒蟲》を喚んでくれる。
「龍翔様は、お怪我は……?」
今になって、左腕が砕けそうに痛い。震える声で問うと、秀麗な面輪がいまにも涙をこぼしそうに歪んだ。
「怪我など、あるはずがないだろうっ!? お前のおかげだ。お前が……っ!」
声を詰まらせた龍翔が、言葉の代わりにぎゅっと明珠を抱き寄せる。まるで、明珠を抱き潰すかのような力強い腕。あれほど白かった顔色はもういつもの血色に戻っていて、心からほっとする。
「静まれっ! 慮外者は成敗したっ! 藍圭陛下は無法者に
不意に響いた魏角将軍の声に、明珠は首を巡らせそちらを見る。
いつの間にか《霊亀》と水の壁が消えていた舞台の先で、魏角将軍が参列者達に語りかけている。
その隣には、寄り添って立つ藍圭と初華の姿があった。
「この先、幾多の困難が立ちはだかろうと、藍圭陛下は正妃である初華姫様とともにそれを乗り越えてゆかれるだろう! 我らが晟藍国は海の民! 時に荒れ狂う嵐に翻弄されようとも、目指す光さえ見失わなければ、迷うことはないっ! 藍圭陛下と初華姫様はこれからの晟藍国を導く光となられる御方! お二人の
魏角将軍の声に、うねるような歓声が巻き起こる。
「虹、が……」
目線だけで《龍》を追った明珠は、かすれた声をこぼす。
陽光が《龍》の鱗に反射し、虹がかかっていた。
龍華国と晟藍国の絆を示す、架け橋のように。
「ここに『花降り婚』の成就を宣言する!」
魏角将軍の声に、ひときわ大きな歓声が上がる。
藍圭と初華の門出を心から祝う声に、胸がいっぱいになって、涙があふれてくる。
安堵した途端、
そうだ。こんな人前で龍翔に抱き上げられていていいはずがないのに。
早く下りなければと思うのに、鎖でがんじがらめにされたかのように、身体が重くていうことを聞かない。
「『花降り婚』は終わったゆえ、無理に動くな。おとなしく休め」
怒ったような。それでいてどこまでも優しい気遣いに満ちた龍翔の声。
その声に導かれるように、明珠は意識を手放した。
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