126 『花降り婚』の舞台にて その4


 聞く者の魂を凍りつかせそうな暴威に満ちた響き。


 白銀の巨体が、悶えるように身をくねらせる。


「龍翔様っ!?」


 悲鳴のような声を上げた季白が張宇とともに敬愛する主へ駆け寄ろうとする。


 いったい何が起こっているのか。

 突然のことに、明珠は凍りついたように動けない。


 だが、龍翔に何らかの異変が起こったのは確かだ。今朝、起きた時はいつも通りだったというのに。


 龍翔の長身が苦痛に耐えきれぬかのようにふらつき、舞台に片膝をつく。


 我に返ったように藍圭があわててふためいた声を上げた。


「《れ、霊亀っ!》」


 藍圭の声に応じ、《霊亀》が長い尾をぶんっと振る。途端、規制線の手前での手前の水面みなもが立ち昇り、視界をふさぐかのように分厚い水の壁が現れる。


「《幻視蟲っ!》」


 藍圭の意図を察した初華の凛とした声が響く。


 そうだ。いまは『花降り婚』の真っ最中なのだ。舞台の上の混乱を参列者に見せるわけにはいかない。


 突然、現れた水の壁に大きく波が立ち、船が揺れる。規制線の向こうから混乱に満ちた声が口々に上がる。


 舞台のそばに浮かぶ楽師達が乗る船も大きく揺れ――。


 不意に、船頭のひとりが揺れをものとせずにすっくと立ち上がる。


 かと思うと、かいに偽装していた剣をすらりと抜き放ち、十数匹もの《刀翅蟲》を召喚しながら舞台へと跳んだ。陽光を反射して、ぬめるように不気味に光る白刃は、おそらく毒が塗られているに違いない。


 空中に喚んだ《板蟲》を足場にし、男が舞台へ跳び移る。


 その間にも男が召喚した《刀翅蟲》が風を斬って藍圭に迫る。


「藍圭陛下っ!」


 龍翔に駆け寄ろうとしていた張宇がとっさに身を翻して藍圭に迫ろうとしていた《刀翅蟲》を『蟲封じの剣』で斬りつける。硬いはずの《刀翅蟲》が豆腐のようにすっぱりと切断された。


 舞台に飛び乗った刺客の前には、剣を抜き放った浬角が立ちふさがる。


「お前は離城を襲った賊……っ!? 今度こそ捕らえてやる! 藍圭陛下には指一本ふれさせんっ!」


 驚愕の声を上げた浬角に、刺客の男は無言で斬りかかる。


 感情を宿さぬまなざしはぞっとするほど冷ややかで、まるで淡々と人をほふる機械のように思える。


「くっ!」


 刺客の猛攻に浬角が苦しげに呻く。剣の腕に優れた浬角だというのに、刺客の腕前はさらに上回っているらしい。


 だが、自分が優位に立っているにもかかわらず、刺客の男にはそれをおごる気配すらない。何十匹にも及ぼうかという《刀翅蟲》を喚びながら、ただ淡々と浬角を追い詰めるだけに剣を振るう。


 いくら《視蟲》で蟲が見えるとはいえ、剣を合わせながら前ぶれもなく放たれる《刀翅蟲》に対応するのは不可能だ。《刀翅蟲》の鋭い刃に、浬角の袖が斬り裂かれる。と。


「っ!?」


 不意に、刺客が息を呑んで横へ飛びすさった。


 一瞬前まで刺客がいた空間をぎ払ったのは、晟藍国水軍のよろいを纏った安理の剣だ。


「浬角サンだけにかまってたらいちゃうっスよ~♪ せっかくの『花降り婚』を邪魔してくれたんスから、熱烈に歓迎してあげないとねっ♪」


 飄々ひょうひょうとした口調とは裏腹に、安理が容赦なく刃を振るう。


 二人がかりで攻め立てられ、さしもの刺客も追いつめられたかに見えた。が。


 ぶぅん、と不穏極まりない羽音が響く。《霊亀》の水の壁の上を通り過ぎ現れたのは百匹にも及ぼうかという《刀翅蟲》の大群だ。


 刺客が放ったものではない。きっとこれは禁呪使いのものだ。


「《盾蟲っ!》」


 玲泉と周康、初華が《盾蟲》を喚び出して《刀翅蟲》を防ぎ、硬いもの同士がぶつかる音が鳴り響く。《刀翅蟲》に斬り裂かれた《盾蟲》が、どんどん数を減らしていき、獲物に群がる獣のように藍圭達に迫る《刀翅蟲》を、張宇の剣が斬り落とす。


 幼い身で《霊亀》を使役するのが負担なのか、真っ青な顔で膝をついた藍圭を、初華と魏角将軍が支えている。身をていして初華達を庇うつもりなのか、萄芭も真っ青な顔で、それでも気丈に初華のすぐそばに控えている。


 飛び回る蟲達に、瀁淀をはじめとした高官達や芙蓮は、頭を抱え、悲鳴を上げながらうずくまっている。


 ただひとり、雷炎だけが必死に戦う面々を睥睨へいげいするかのように悠然と立っていた。好奇心に輝く目は、この上なくおもしろい見世物を楽しんでいるかのようだ。


 その視線の先にいるのは。


「龍翔様っ!」


 季白が聞いたことのない悲痛な声を上げて、床にくずおれそうになっている龍翔を抱き寄せている。苦しげな息を洩らしながら、かろうじて意識を保っているかのような龍翔の面輪は、雪のように真っ白だ。


 龍翔の姿を見た途端、明珠の胸が壊れそうにきしむ。


 大切な方が、あんなに苦しんでいるのに。


 怯え、震えて動けない自分は、いったい何をやっているのかと。


 明珠を鞭打むちうつかのように、空中で狂ったように身をくねらせる《龍》が、雄叫びを上げる。


 魂まで消し飛んでしまいそうな威圧感に、膝が笑ってくずおれそうになる。


 ぐるり、ともだえるように空中でひとひねりした《龍》の目は、夜の淵よりも昏い闇色だ。ふだんは澄んだ空のような碧だというのに。


 見る者の心を凍らせずにはいられない闇色の瞳が、ひたりと龍翔を見据える。


「だめ……っ!」


 無意識に、身体が動く。


 《龍》が何をしようとしているのか、考えるよりも早く、本能がそれを察知して。


 白銀の巨大な矢のように、《龍》が龍翔目がけて身を躍らせる。


「龍翔様っ!」


 藍圭に迫る《刀翅蟲》を斬り伏せた張宇が駆け寄ろうとするが、間に合わない。

 季白が龍翔を抱え込み、身をていして守ろうとする。


 《龍》の牙が二人に突き立つ寸前で。


「だめっ!」


 明珠は駆け寄った勢いのままに、腕を伸ばし、《龍》の鼻先にしがみついた。


  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る