127 自分で自分の身を引き裂いてやりたくなる


 龍翔の腕の中の明珠の身体からがくりと力が抜け、途端に重みを増す。


 愛しい少女を決して取り落とすまいと、龍翔は両腕に力を込めた。


 禁呪が暴れ回った身体は気を抜けばくずおれてしまいそうだ。だが、明珠を他の誰かに任せる気には決してなれない。


 己の血飛沫ちしぶきでところどころをあけに染め、血の気を失って蒼白の面輪を見ただけで斬られたように胸が痛む。


 本当に、なんという無茶をするのか。

 正気を失った《龍》の前に、我が身を差し出すなど。


 しかも、それが龍翔を助けるためにだなんて。


「龍翔殿下……」


 すぐそばにいた玲泉が、呆然とかすれた声を出す。


 いったい、なぜ《龍》が正気を失ったのか問いただすかと思いきや。


「明順は……。まさか、殿下を助けるために、我が身を挺したのですか……?」


 玲泉の声は、自分自身の目で見たことが信じられぬと言いたげだ。


 だが、いまここでのんびりと玲泉に説明してやる気など欠片もない。


「それがこやつだ」


 お人好しで、無鉄砲で、龍翔の心臓を壊しそうなほどの無茶をしでかす少女。

 明珠の行動はいつも、余人の想像をたやすく超えてゆく。


 すげなく告げ、玲泉にかまうことなくきびすを返す。


 《癒蟲》で傷は治したが、一刻も早く明珠を医者に診せてやりたい。


 龍翔は舞台の先で民衆の歓喜の声に応える藍圭と初華をちらりと振り返る。途中、刺客の乱入があったにもかかわらず、民衆の熱気はうなぎ登りだ。あちらはもうしばらく下がれぬだろう。


 藍圭達や魏角将軍の頭上では、白銀にきらめく《龍》が、虹を背に悠然と宙を舞っている。


 いったい、いつの間に《龍》に禁呪を仕込まれていたのか。心当たりがあるとすれば、砂郭さかくで《龍》に禁呪使いを追わせた時くらいしかない。


 龍翔ではなく、《龍》に禁呪を仕込み、正気を失わせるとは。いったいどれほどの禁呪がめられていたのか。


 想像するだけで背筋が寒くなる。


 同時に、我が身を賭して《龍》を正気に戻し、龍翔を助けてくれた明珠の献身に、言い知れないほどの感謝が湧き上がる。


 刺客は安理と浬角が倒したらしい。舞台に伏した死体が民衆に見えぬよう、周康が《幻視蟲》を召喚して隠している。さすがに、『花降り婚』の舞台の上で死体をそのまま転がしておくわけにはいかない。藍圭達が下がってから処理するしかあるまい。


 季白を従え、足早に舞台後ろのきざはしへ歩を進めようとしたところで、やけに弾んだ声の雷炎に呼び止められた。


「これはこれは。想像していた以上におもしろいものを見せてもらった。いやはや、まさかこれほどの騒乱が巻き起こるとはな。ご無事で何より」


 まるでとっておきの出し物を堪能たんのうしたように、楽しげな笑みを浮かべて雷炎が告げる。その顔は、新しい玩具を見つけたかのようだ。


「まこと、龍翔殿下は興味の尽きぬ方ですな。まさか、こんな隠し玉を持っておられたとは」


 雷炎が興味深げな視線を向ける先は龍翔の腕の中の明珠だ。明珠の姿が参列者達に見えぬよう、《幻視蟲》で姿を隠しているが、優れた術師である雷炎にはやはり効かぬらしい。


 不躾ぶしつけな視線に、龍翔は明珠を抱き上げる腕に力を込め、背を向けるようにして視線を遮る。


「お褒めにあずかり恐悦至極です。いっときはどうなることかと思いましたが、無事、『花降り婚』を成就させることができました。雷炎殿下はお怪我はございませんか?」


 雷炎が怪我などしていないことは見ただけで明らかだが、礼儀として尋ねると、「ああ、もちろんだ」と雷炎が鷹揚おうように頷いた。


「俺は怪我ひとつない。龍翔殿下は、満身創痍まんしんそういのご様子ですが。あれほどの《龍》を喚ぶのは、かなりのご負担でしたかな?」


「お恥ずかしい限りです。せっかくの『花降り婚』ゆえ、身の丈以上の《龍》を喚んでしまいました」


 禁呪使いに命を狙われていることを雷炎に伝える気など、はなからない。


「なるほど。晟藍国の民に龍華国の威を見せつけるのに、『花降り婚』はうってつけですからな」


 龍翔の言をまったく信じていないだろうに、笑みを浮かべて頷いた雷炎が、ついと空を舞う《龍》に視線を向ける。


「これほど、興味深いものを見られるとは……。やはり、百聞は一見に如かず。自ら訪れて正解でしたな」


 白銀に輝く《龍》を見やる雷炎が、心の中で何を考えているのかは読み取れない。

 だが、いまは問うている暇はない。


「申し訳ございませんが、先に失礼いたします」


 雷炎の視線が外れたのをよいことに、軽く一礼して足早に階へ向かう。龍玉を握る明珠を抱きしめているため、まだ《気》を保っていられるが、あまり長く《龍》を喚の続けてはいられないだろう。


 待機していた船に乗り込み、兵士達に出発を命じると、船が動き出した途端、季白が飛びつかんばかりの勢いでずいっと身を寄せてきた。


「龍翔様っ! お加減はいかがでございますかっ!? ああっ、顔色がお悪うございますっ! 明順などわたしが見ておきますから、龍翔様はどうかごゆっくりおやすみに……っ!」


「そんなことができるわけがないだろう。明順はわたしが見る。お前こそ、舞台に残っておればよかったものを」


 さすがにこれ以上の襲撃はないと思うが、油断はできない。張宇や安理、周康を残してきたのは、藍圭や初華達を守らせるためだ。


 告げた瞬間、季白が悲愴な声を上げる。


「何をおっしゃいますっ! わたしが龍翔様のおそばを離れるなど、天地がひっくり返ってもありえませんっ! 刺客に狙われているのは藍圭陛下だけではないのですよっ!? 龍翔様はもう少し、御身がどれほど大切な存在か、理解してくださいっ! 龍翔様の肩に龍華国の未来はかかってらっしゃるのですよっ!?」


 切れ長の目を吊り上げて説教をする季白が、いつも通りと言えばあまりにいつも通りで、思わず苦笑が洩れてしまう。と、季白がさらに目を怒らせた。


「龍翔様っ! 笑いごとではございませんっ!」


「ああ。わかっておる。だが、こんな時でもふだん通りのお前を見たら、妙に安心してしまった」


「そ、そのようにおっしゃられても、ごまかされるわたしではございませんっ!」


 そう言いつつも、季白はどことなく嬉しそうだ。


「あの時、我が身を挺してわたしを庇おうとしてくれたな。感謝する」


 礼を述べると、季白の面輪が感動のあまり、泣き出しそうに歪んだ。


「当然でございますっ! 龍翔様に万が一のことがあれば、わたしも生きてはおりませんっ! ですから、わたしのためにも龍翔様はどうか御身を大切になさってください!」


「……我が身を大切にせねばならんのは、わたしではなくこやつだろう」


 心の底から嘆息し、腕に抱いた少女を見下ろす。


 龍翔に身を預けて眠る明珠は、呼吸こそ穏やかなものの、顔色はまだ白く、乾いた血があちらこちらにこびりついているのが痛々しい。


「季白。手巾を濡らして貸せ」


 短く命じると、龍翔の意を即座に察した季白が船に備えつけられていた水差しで手巾を濡らし、差し出した。


 受け取った龍翔は明珠の顔に飛び散った血を丁寧にぬぐってゆく。頬を拭いても、明珠はまぶたを閉じたまま、まったく目覚める気配がない。


 きっと、精根使い果たしたに違いない。


 荒れ狂う《龍》の眼前に飛び出すなど、肝の座った兵士でも怖気おじけづくというのに、寸鉄すら帯びずに身ひとつでしがみつくとは。


 だが、明珠をそんな危険に晒してしまったのはすべて。


 《龍》に禁呪が仕込まれたことに気づかず、また禁呪に抗しえずに膝をついてしまった龍翔自身のせいだ。


 我が身のふがいなさを思うと、自分で自分の身を引き裂いてやりたくなる。


 単に禁呪が強まっているのだと思わず、不調の原因をもっとちゃんと調べていれば。

 本番当日ではなく事前に《龍》を喚んでいれば、いまのような事態にはなっていなかったかもしれない。


 いまさら悔やんでも遅いとわかっている。


 それでも、誰よりも大切な少女を自分のせいで傷つけてしまったという罪悪感に、いっそのこと誰かに刺し貫かれたいとさえ思う。


 むろん、そんなことをしても、明珠が喜ばないのはわかっている。だが、どうしても龍翔の気持ちがおさまらない。


 左腕を《龍》の顎へ突っ込んだせいだろう。明珠のお仕着せの袖はざっくりと裂け、血がこびりついた真っ白な肌があらわになっている。


 深かった傷は《癒蟲》で治したが、だからと言って明珠が感じた恐怖や痛みが消えるわけではない。


 本当に、明珠はどれほどの勇気を振り絞って龍翔を助けようとしてくれたのか。


 痛いほどに胸が苦しい。目頭が熱くなり、こらえていなければ涙があふれそうになる。


「明珠……っ」


 吐息だけで愛しい少女の名を呼び、龍翔は眠る明珠の身体をぎゅっと抱きしめた。


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