126 『花降り婚』の舞台にて その2


「では、玲泉様もよろしくお願いいたしますわね。頼りにしておりますわ」


 ふふっ、と笑んだ声を上げた初華に、玲泉が仕方なさそうに吐息した。


「まったく、初華姫様にはかないませんね。たとえ賊が潜んでいるとしても、これほどの《盾蟲》が飛び交う中、そうそう手を出せるものではないと思いたいところですが……。これだけ人出が多ければ、ひょんなことから騒乱が起こらぬとも限りませんからね。万が一、混乱が巻き起これば、人出が逆に足枷あしかせとなり、おさめることは簡単ではないでしょう。賊がそれを狙っているとも限りません」


 玲泉が優雅な所作で周囲を見回す。


 船の周りには龍翔や玲泉が召喚した百匹に及ぼうかという《盾蟲》が飛び回っていて、羽音がうるさく感じるほどだ。


 《刀翅蟲》などでの襲撃を警戒してのことだが、藍圭の船のほうは周康が召喚しているに違いない。


 術師ではないため《蟲》を見ることができない季白や張宇、萄芭達の額には、《視蟲》がとまっている。


 やりとりをしている間にも船はぐんぐんと波を立てて進み、舞台が近づいてくる。

 舞台の上に見える人影は先に出発した雷炎や瀁淀達だろう。


 沈黙が落ちた船の上に、《盾蟲》の羽音と波音、それと規制線の向こうの船から聞こえてくる潮騒しおさいのような人々のざわめきに混じって、華やかな楽の音が届いてくる


 舞台のそばに浮かべた船に乗った二十人ほどの楽師達が奏でる音色だ。


 心を弾ませるような妙なる音色は、華揺河の波音と相まって、まるで華揺河も婚礼を祝ってくれているかのように思えてくる。


 思っても詮無せんないことだとわかっていても、明珠はつい、《盾蟲》が飛んでおらず、羽音が聞こえていなければ妙なる音色を心から楽しめただろうにと、哀しく思う。


 せっかく、『花降り婚』を祝う調べが奏でられているというのに、いつ襲撃が起こるやもしれないこの状況では、楽の音に耳を傾けている余裕などない。


 船の縁には《氷雪蟲》がとまり、冷気を放っているというのに、緊張にじわりと汗がにじんでくる。もしかしたら、先ほどの玲泉の軽口は、緊張をほぐそうとする玲泉なりの気遣いだったのかもしれない。


 きつく唇を引き結んで緊張に耐えていると、不意に、隣に座る張宇に励ますようにぽんと背中を軽く叩かれた。


「心配しなくても大丈夫だよ。これだけの面々がそろっているんだ。先ほど玲泉様がおっしゃったとおり、賊もそうそう手は出せないさ」


 ぽんと叩かれ、明珠は自分の身体ががちがちに強張っていたことにようやく気づく。『花降り婚』の式典自体はさほど長くないとはいえ、まだ始まってもいない今からこんなに緊張していては、最後まで精神力と体力がもたないだろう。


「はい。ありがとうございます、張宇さん」


 心をほぐすような穏やかな声と大きく頼もしい手のひらにほんのわずかに緊張が解け、明珠は小さく笑みを浮かべて礼を言う。


 見学するだけの役立たずな明珠と違って、張宇達はこの後も気を引き締めて警護しなければいけないのだから、明珠などに気を遣わせては申し訳なさすぎる。


「まもなく舞台ですね」


 警戒を促すような季白の声に、明珠は唇を引き結び、舞台へと視線を向ける。


 平底船を連ね、その上に板をはって円形にした舞台にはいくつかのきざはしが設けられている。舞台の真横にある立派な階が貴人用で、裏手に設けられているのは、裏方用だ。


 初華が乗る船が接舷せつげんしたのは、もちろん貴人用の階だ。階の下は乗り降りしやすいように広めに板がはられている。太鼓を叩いていた兵士がさっと動き、船と階の間に幅広の板を渡した。


「では、行くか」


 優雅に立ち上がった龍翔が、柔らかな微笑みとともに恭しく初華に手を差し伸べる。


「ええ。参りましょう」


 萄芭とうはが差し掛ける傘から垂れる紗の間から、繊手を伸ばした初華が、龍翔の手のひらに己の手を重ねる。励ますように妹の手を一度ぎゅっと握りしめた龍翔が、ゆっくりと歩を進めた。


 龍翔と同時に立ち上がっていた玲泉が龍翔達の一歩後ろに続く。


 波は穏やかとはいえ、やはり船の上は揺れる。だが、龍翔達の足取りは危なげなく確かだ。


 初華達が階に降りてから、明珠達も立ち上がる。


「大丈夫かい?」


「は、はいっ。ひとりで平気です!」

 手を差し伸べようとした張宇にかぶりを振って答える。


 張宇の気遣いはありがたいが、今の明珠は少年従者なのだから、手を引いてもらうわけにはいかない。


 季白、明珠、張宇の順で初華達に続いて、二十段ほどの階を上がる。


 舞台に上がった瞬間、規制線の向こうの数多の船の乗客から、視線の矢が放たれた気がして、明珠は思わず立ちすくんだ。


 視線の位置が上がったからだろう。船に乗っていた時よりも、周りの景色がよく見える。みっしりと浮かぶ船は、港中を埋め尽くすかのようだ。


 従者のひとりに過ぎない明珠ですら、これほどの視線の圧を感じているのだから、実際に視線を向けられている龍翔や初華、玲泉達はいったいどれほどの重圧を感じていることか。


 ここで明珠が無様な姿を見せるわけにはいかないと、明珠はかたかた鳴りそうになる奥歯を噛みしめ、季白に続く。


 と、舞台の向かいに、藍圭や浬角、二人の後ろに続く安理と周康が、こちらと同じように登ってくる姿が見え、明珠は心の底からほっとした。


 別れて船に乗る間は警備が手薄になるため心配していたが、舞台まで何事もなく着けたらしい。


 先頭を歩む藍圭は、緊張のためか硬い面持ちをしていたものの、初華達の姿を見とめてわずかに表情を緩ませる。


 参列者達の視線を一身に受けながら、悠然と舞台の中央に進む初華達と異なり、明珠達は舞台の端へと進む。


 舞台の上にはすでに大臣である瀁淀ようでんと息子の瀁汀ようていなどの晟藍国の高官達と藍圭の腹違いの姉である芙蓮ふれん姫、そして数人の従者を連れた雷炎が待機していた。


「ついにこの日が来ましたな」


 初華の手を引いた龍翔達が雷炎の前を横切ろうとした瞬間、雷炎が笑みを浮かべて小声で龍翔に話しかける。


「《龍》を間近で見られるこの機会を、どれほど楽しみにしていたことか。期待が裏切られぬことを、切に願っておる」


 雷炎が虎がわらうような獰猛な笑みを見せる。


「ええ。どうぞ、お近くでじっくりとご覧ください。見事、『花降り婚』を成就させて見せましょう」


 応じる龍翔の声もまた小さい。だが、力強い声は必ずや成し遂げてみせるという決意に満ちている。


 龍翔と雷炎がやりとりしている間に、明珠達は無言で恭しく一礼し、邪魔にならぬよう後ろのほうへ控える。


 所定の場所につき、明珠は小さく息を吐き出した。


 季白や張宇は慮外者が現れぬよう、警戒を続けなければならないが、荒事にはまったく役に立たない明珠は、後はただ『花降り婚』が終わるまで、ひたすらおとなしく見ているだけだ。


 どうか、何事もなく終わりますように、と心の底から願わずにはいられない。


  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る