126 『花降り婚』の舞台にて その1


「ふぁああ……っ!」


 華揺河にしつらえられた舞台へと移動する船の上で、明珠はこらえきれずに感嘆の声を上げた。


 途端、季白から刃のような視線が飛んできて、あわてて両手で口をふさぐ。が、遅かった。


「なんと暢気のんきな……っ! わかっているのですか!? これからわたし達は『花降り婚』にのぞむのですよ!? いわば、今回の晟藍国行きの決戦にも等しいというのに、のんびり景色を堪能たんのうしているとは……っ! 気が緩み過ぎですっ! 暢気にしていられないよう、わたしが締め上げてあげましょうか!?」


「ひぃぃぃっ!」


 思わず悲鳴を上げて震えると、すぐさま龍翔が庇ってくれた。龍華国側の船に乗っているのは、花嫁である初華と侍女頭の萄芭とうは、差し添え人の龍翔と玲泉、季白と張宇と明珠の他は、漕ぎ手である晟藍国水軍の兵士達だけだ。


 漕ぎ手の動きを合わせるために、兵士のひとりが太鼓を持っており、一定の拍子で叩かれるたびに、兵士達が一糸乱れぬ様子でかいを動かし、きらきらと水飛沫が上がる。


「季白。あまり厳しく明順を責め立てるのではない。晟藍国の豊かさがよくわかる見事な景色ではないか。安理が言っていた通り、まさかこれほどまでの人出だとはな……」


 龍翔が気品のある所作で首を巡らす。視線を追うように、明珠ももう一度辺りを見回した。


 よく晴れた早朝の華揺河は陽光を照り返す水面がまるで金剛石を砕いて散りばめたように輝いている。


 だが、水面のきらめきが見られるのは船の出入りが規制されたこちら側だけだ。等間隔に浮かべた小舟にくいを立て、太い縄を通して出入りを規制した向こうには、大小さまざまな船がひしめきあっていた。


 明珠からすると、船から船へと飛び移れそうなほどの近距離で浮かべているなんて、衝突事故が起こらないかとはらはらしてしまうが、安理が言っていたとおり、交易の盛んな晟藍国の水夫達は、優れた技術をもっているのだろう。


 この船も、魏角将軍率いる水軍から選抜された十人ほどの兵士達がかいを握っていでくれているが、水面を切ってぐんぐんと舞台へと進むさまは、感動を覚えるほどだ。


 規制線ぎりぎりのところに舳先へさきを並べている飾り立てられた豪華な船は、貴族や大商人のものだろう。


 貴族自身だけでなく、従者や漕ぎ手達まで華やかに着飾らせたさまは、港を錦で埋め尽くそうと言わんばかりだ。


 豪華な船が何重にも連なる向こうには、一目『花降り婚』を見ようとつどったのだろう、大勢の人々を乗せた船も見える。


 これだけ大勢の人々が藍圭と初華の婚礼を祝ってくれているのだと、喜びが心に満ちるのと同時に、この中のどこかに禁呪使いが潜み、龍翔や藍圭の命を狙っているのかもしれないと思うと、そら恐ろしくなる。


 乾晶で龍翔を狙った禁呪使いは左腕を失っているという大きな特徴があるものの、この人出では、さしもの安理も見つけられなかったというのも納得できる。


 感嘆と緊張と不安がないまぜになった気持ちで規制線の向こうの景色を眺めていると、舳先へさき近くに初華や龍翔とともに座っていた玲泉に、にこやかに話しかけられた。


「目をきらきらと輝かせて景色に感動しているきみも、とても愛らしいね。晟藍国への船旅でも、甲板からの景色を嬉しそうに見ていただろう? そんなに華揺河の景色が気に入ったのなら、『花降り婚』が終わった後、夕暮れにでも一緒に川遊びに出かけようか。夕焼けに茜色に染まる華揺河をきみと見るのは、さぞかし幸せだろうね」


「ふぇっ!?」


 思いもかけない申し出に、すっとんきょうな声が飛び出す。即座に厳しい声を上げたのは龍翔だ。


「玲泉! 大切な『花降り婚』を前に、何を暢気のんきなことを言っている!? お前と明順が川遊びをするなど、主であるわたしが許すわけがないだろう!?」


「おやおや。従者をいたわってもやらぬとは、なんとひどい主人でしょう。やはり、そんな主人に大切な明順を任せてはおけませんね。どうだい、明順? わたしのところへ来ないかい? きみならいつでも大歓迎だよ?」


「玲泉! 大切な『花降り婚』を前に戯言たわごとを明順を惑わせるでない!」


 明珠が答えるより早く、龍翔の鋭い声が飛ぶ。だが、玲泉の美声は止まらない。


「惑わせられているのは龍翔殿下ではございませんか? わたしの言葉にそのように過敏に反応されているのが明らかな証拠。明順がわたしを選ぶのではないかと、内心、不安で仕方がないのでは?」


 玲泉が挑発するように口のを上げ、思わせぶりに龍翔を見やる。


「言わせておけば勝手なことを……っ!」


 龍翔の黒曜石の瞳に剣呑な光が宿る。


 いったい自分はどうすればいいのだろうかと、明珠はおろおろと龍翔と玲泉の間でせわしなく視線を行き来させる。


 困り果て、泣きそうになっていると。


「玲泉様」


 いわおのようにゆるぎない声で玲泉を呼んだのは、それまで黙していた張宇だった。


「間もなく『花降り婚』にのぞまねばならぬ今、仲間内で不和を起こしている場合ではないのは、聡明な玲泉様ならばおわかりでしょう?」


 穏やかな声音には、責める響きは微塵みじんも感じられない。


 ただただ心から『花降り婚』の成就を祈る誠実さに、さしもの玲泉も反論を封じられて口をつぐむ。


 と、張宇が包み込むような笑みを浮かべた。


「何より、明順を困らせるのは、玲泉様にとっても本意ではございませんでしょう? 龍翔様と玲泉様のご様子に、明順が困り果てて泣きそうになっております」


 途端、龍翔と玲泉の視線が明珠に集中し、明珠は思わず背筋を伸ばした。


「いえっ、あの……っ」


 泣きそうになっていたのは確かだが、それを張宇に指摘されるとは思ってもいなかった。


 何と答えればよいかわからず、おろおろと意味のない声を上げると、龍翔と玲泉が、なぜか同時に吐息した。


「……すまぬ。『花降り婚』を目前にして、気が立っていたようだ」


 詫びを紡いだ龍翔に続き、玲泉も、


「明順の名を出されては、わたしも引かぬわけにはいかないね。ここは張宇殿の顔を立てることとしよう」


 仕方なさそうにゆるりとかぶりを振る。


「ありがとうございます」

 と、張宇がほっとしたように凛々しい表情を緩めて一礼した。


「あら、張宇。礼を言う必要なんてなくってよ」


 口を開いたのは、後ろから萄芭に薄い紗が垂れた大きな傘を差しかけられている初華だ。さすがに声は規制線の向こうまで届かないだろうが、藍圭が乗る船と注目を二分しているからだろう。先頭に座す初華は、振り返りさえもしない。


「あなたが諭さなかったら、わたくしが手ずから華揺河に叩き落していたところだったもの」


 とんでもないことをさらりと告げた初華に、一瞬、虚をつかれた顔をした玲泉が、次いで苦笑を洩らした。


「『花降り婚』直前に、花嫁が船から差し添え人を突き落とすなど……。悪い意味で歴史に残る『花降り婚』となってしまいますよ?」


「あら、望むところですわ。たとえ、差し添え人であろうとも、害をすと思えば容赦なく突き落とす苛烈な正妃だと貴族達に知らしめられれば、盾突たてつこうとする者も減るでしょう? 船縁を超えたらすぐに華揺河ですもの。今こそ、玲泉様を沈める好機かもしれませんわね?」


 傘を差しかけかれているうえに前を向いているので表情は見えないが、初華の声は真剣極まりない。


 初華の本気を感じ取ったのか、さしもの玲泉も顔色が悪くなる。


「さすがに沈められるのは困りますね。……わかりました。張宇殿が言われるとおり、今は『花降り婚』の成就に全力を尽くといたしましょう」


 端麗な面輪を引き締め頷いた玲泉に、龍翔も矛をおさめる気になったのか表情を和らげる。


 二人の様子に、明珠もほっと息を吐き出した。『花降り婚』の直前で仲間割れなんて恐ろしすぎる。


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