124 先に藍圭陛下おひとりをお通しするようにと その2


 龍翔から目を離すことができず、魅入られたように見上げていると、明珠の視線に気づいたらしい龍翔が振り返った。


「どうした?」


 甘さを宿した柔らかな笑みに、ぱくりと心臓が跳ねる。


「い、いえ……っ。初華姫様と藍圭陛下のために、何としても『花降り婚』を成就させなければなぁと思いまして……っ」


 本当は半分くらいは龍翔の凛々しい姿に見惚れていたのだが、恥ずかしくて口には出せない。


「と言っても、私は無事にいくようにとお祈りしながら見ているだけで、何もできないんですけれど……」


 参列しながら、同時に警護も兼ねる季白や張宇、周康達と違い、明珠は、本当にただ立っているだけだ。


 むしろ、実際に襲撃が起こったら、足手まといになる可能性だってある。


 もちろん、できる限り邪魔にならないように息を潜め、自分の身は自分で守れるように《盾蟲》を召喚して端っこでうずくまっているつもりだが……。何の役にも立てない自分が情けなさすぎる。


 うなだれ力なくこぼすと、ぽふぽふと大きな手のひらにあやすように頭を撫でられた。


「何を言う? お前はすでに務めを果たしたではないか。わたしが自信をもって『花降り婚』にのぞめるのは、お前のおかげにほかならぬ」


 優しさに満ちた声に引き寄せられるように顔を上げると、明珠を見下ろす黒曜石の瞳と目があった。


 同時に、龍翔が言う『務め』が夕べ、一緒の寝台で眠ったことなのだと理解し、みっともないほど心臓が騒ぎ出す。きっとゆでだこみたいに顔が真っ赤になっているに違いない。


 こんなに凛々しい龍翔の腕の中でひと晩眠ってしまっただなんて、どう考えても夢としか思えない。いや、やっぱり夢だったのではなかろうか。


 夢である可能性を真剣に思い悩んでいると、もう一度優しく頭を撫でられた。


「役目は済んだのだから、お前は特等席で『花降り婚』を楽しむといい。初華もそれを願っているだろうからな」


「お兄様のおっしゃるとおりですわ。今日はわたくしの艶姿あですがたと藍圭様のご立派なお姿をしっかり見守ってちょうだいね」


 龍翔に次いで、藍圭と手をつないだままの初華が話しかけてくる。


 自分で艶姿と言うなんてすごい自信だが、実際、初華のあでやかな花嫁姿を見ていると、光り輝くような華やかさと優艶さで、くらくらするような心地になる。


「は、はいっ! このたびは本当にありがとうございますっ! 初華姫様と藍圭陛下のご婚礼を間近で見させていただけるなんて……っ! 一生の思い出にいたしますっ!」


「そう言ってもらえるなんて嬉しいわ。見ていて。晟藍国だけでなく、周辺の国々にまで藍圭様のご威光をしらしめすような『花降り婚』にしてみせるから」


 初華が華やかな笑みを見せる。自信に満ちた様子は襲撃のことなど何も心配していないかのように見える。


「わたくしと藍圭様の『花降り婚』を慮外者のいいようになど、決してさせませんもの!」


 違う。初華は襲撃の可能性をわかっていて、そのうえでそれを乗り越えてみせる気なのだ。


 華やかな容貌の陰に隠れた芯の強さに、明珠は目が覚める心地がする。


「……初華。お前の意気込みはわかったが、今日のお前は花嫁なのだ。頼むから、もし何かあったとしても、率先して賊に立ち向かったりするのではないぞ?」


 初華の様子に不安が刺激されたのか、龍翔が秀麗な面輪をしかめて忠告する。


「何のためにわたしや季白達や浬角殿がいると思っている? 魏角将軍率いる水軍も厳重に警備していることだろう。お前や藍圭陛下に危険が及ぶような事態は決して起こさぬ。お前は安心して藍圭陛下のお隣にいるとよい」


「わかっておりますわ」

 初華が童女のようにぷくっと頬をふくらませる。


「わたくしがいるべきは藍圭陛下のお隣。そこを誤ることはございません!」


 藍圭とつないでいる初華の指先に力がこもる。


「わたくしは藍圭様を守る最後の盾。何があろうと藍圭様をお守りしてみせます!」


「いけませんっ! 初華姫様っ!」

 初華の宣言に藍圭があわてふためいた声を上げる。


「初華姫様が賊と相対されるなど……っ! そんな危険なことをなさってはいけませんっ! むしろ。初華姫様のことはわたしが守りますっ! 初華姫様はわたしの正妃なのですから!」


 愛らしい顔に決意を秘めて藍圭が宣言する。「まぁっ!」と初華が感極まったように声を上げた。


「藍圭様にそのように言っていただけるなんて……っ! 嬉しゅうございます! ですが……」


 初華が身を屈め、自分よりも背の小さい藍圭の顔を覗き込む。


「この晟藍国で最も重要な御方は、他国から来たわたくしではなく、国王である藍圭様なのです。藍圭様がわたくしをご心配くださるお気持ちは、天にも昇るほど嬉しゅうございます。それでも……。藍圭様様は、国王として、いざという時には、わたくしを盾としてでも、御身を守るご決断をしていただかなくてはなりません」


「初華姫様……」


 麗しい面輪を厳しく引き締め、刃を振るうようにきっぱりと告げた初華の言葉に、藍圭の顔が泣き出しそうに歪む。


 明珠、は藍圭が本当に泣き出してしまうのではないかとはらはらする。


 初華が告げたことは、政治の世界においては正しいことなのだろうと、理性ではわかる。だが、自分が生き残るために大切な誰かを犠牲にするなんて、たとえそれが最善なのだとしても、心が納得できるわけがない。


 けれど、当事者でもなく、何の力も持たない明珠が、いったい藍圭にどんな言葉をかけられるというのか。何を言おうと、うわべだけの空虚な言葉にしかならない。


 無力な自分が情けなくて、唇を噛みしめていると。


「……初華姫様のおっしゃりたいことは、わかりました」


 藍圭が、静かな声で口を開く。


「わたしに何かあれば、晟藍国の国王の座は、瀁淀ようでんへと移ってしまう。それは、この国の未来にとって、決してよいことではないでしょう。それを防ぐためにも、わたしは自分の身を第一に考えなければなりません。――ですが!」


 つないだ手を引き抜いた藍圭が、ぎゅっ、と初華に抱きつく。


「わたしは妻になる方すら守れぬ情けない男になるのは嫌ですっ! 確かにわたしはろくに剣も使えず、術の腕前もたいしたことはありませんが……。それでも、大切な初華姫様を見捨てるなんて、絶対に嫌ですっ! そんなことをすれば、わたしは自分自身を許せなくなってしまいます!」


「藍圭様……っ」


 ぎゅぅっと藍圭の腕に力がこもり、初華が驚きに満ちた声を洩らす。


「それに」


 そっと腕をほどいた藍圭が、先ほどとは逆に、初華の顔を覗き込む。


「晟藍国にとって、初華姫様は異国の姫かもしれませんが、あなたは龍華国の第一皇女。もし初華姫様の身に何かあれば、晟藍国が龍華国から責を問われてしまいます。国王として大国に睨まれる事態は、何としても避けねばなりません。そのためにも、初華姫様はわたしの隣を離れないでください。万が一賊と戦う時は、二人で一緒に戦いましょう」


「……っ!」


 目をみはった初華が、声をこらえるように唇を引き結ぶ。

 穏やかに割って入ったのは龍翔の声だった。


「これは、藍圭陛下の完勝だな、初華」


 初華と藍圭に歩み寄りながら、龍翔が柔らかな微笑みをこぼす。


「藍圭陛下にここまで言われては、さすがのお前も無茶はできまい」


 二人のそばへ歩み寄った龍翔がさっと片膝をつき、恭しく藍圭を見上げる。


「藍圭陛下のお気持ちは、しかと承りました。初華を妻として大切に想っていただけていること、兄として心より深く感謝いたします」


 深く頭を下げて謝意を述べた龍翔が、秀麗な面輪を上げ、真っ直ぐに藍圭を見つめる。


「ですが、ご安心ください。藍圭陛下と初華を危険にさらさぬために、わたし達がおそばに控えているのですから。決して賊を二人に近づけたりはしません」


「そ、そうです! 龍翔殿下のおっしゃるとおりです!」


 涙をこらえるような顔でそばに控えていた浬角が、大きく同意の声を上げる。


「わたしも父上も、水軍も、藍圭陛下と初華姫様をお守りするためにいるのです! ……わたしは前国王夫妻をお守りできなかった不甲斐ない護衛ですが……。今度こそ、前のような不覚はとりません! 何があろうと、お二人をお守りしてみせます!」


「浬角……」


 忠臣の言葉に、虚をつかれたように目を瞬いた藍圭が、次いで初華を抱きしめていた腕をほどき、浬角に向き直ると包み込むような笑顔を見せる。


「何を言う。離城で賊に襲われた時、わたしが生き残れたのは、お前が守ってくれたからだ。そうだな、わたしには義兄上あにうえ様も、お前や魏角将軍達もついている。決して、賊のいいようにはさせん!」


「はい! お任せください!」


 浬角が硬く握りしめた拳で、どんと胸を叩いて請け負う。


「ああ、任せた。義兄上様も、どうぞよろしくお願いいたします」


 藍圭が立ち上がった龍翔に向き直り、深々と頭を下げる。


「ええ、お任せを」

 力強く応じた龍翔の声に、同じく立ち上がった初華の声が続く。


「もう……っ! 藍圭様もお兄様も、困りますわ! 涙でお化粧が崩れたら、どうしてくださいますの……っ!」


 怒っているようなねた声。けれどもそれは、嬉し涙を必死にこらえているのが明らかで。


 明珠の心まで、じんと熱くなって涙がにじみそうになる。


「申し訳ありません、初華姫様!」


 あわてて詫びた藍圭が初華へとそっと手を差し伸べる。


「参りましょう、初華姫様。わたし達の『花降り婚』へ。この国と、わたし達二人の未来のために」


「ええ!」


 初華の繊手せんしゅが藍圭の小さな手のひらに重なり、二人がぎゅっと手を握り合う。


 凛と背を伸ばして歩む二人を、明珠は感嘆の想いとともに見守った。


  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る