124 先に藍圭陛下おひとりをお通しするようにと その1


 龍翔を先頭に、すぐそばにある初華の私室へ向かった明珠達は、扉の前で、ちょうど逆方向から来た藍圭と従者の浬角りかくに行き合った。


義兄上あにうえ! おはようございます!」


 愛らしい面輪を緊張に張りつめさせていた藍圭が、龍翔の姿に表情を緩ませて元気よく挨拶する。


「藍圭陛下。おはようございます」


 藍圭が緊張しているのを感じ取ったのだろう。応じる龍翔の声音は、強張りをほどくかのように穏やかだ。


 今日の主役のひとりである藍圭は、華揺河かようがわの流れを連想させる深い青緑色の地に、金糸で刺繡や宝石の縫い取りがされた立派な衣を纏っていた。施されている刺繍は、おそらく晟藍国の象徴である《霊亀れいき》だろう。


 国王であることを示す衣装を纏う藍圭は、幼いながらも威厳にあふれていて、明珠は見ているだけで感動に涙があふれそうになる。


 今日の『花降り婚』が無事に終われば、藍圭は、名実ともに晟藍国の国王として内外に認められるのだ。


 どうか無事に成就しますようにと、明珠は心の底から願う。


「藍圭陛下も初華に呼ばれたのですか?」


「はい、そうなのです」

 龍翔の問いかけに藍圭がこくりと頷く。


「それは誠に申し訳ございません。お忙しい藍圭陛下をわざわざお呼び立てするとは……。妹に代わり、兄としてお詫び申しあげます」


 優雅な所作で頭を下げた龍翔に、藍圭が「とんでもありませんっ!」とふるふるとかぶりを振る。


「わたしも、式の前に初華姫様にお会いできたらよいなと思っていたので……。お呼びいただいて嬉しいほどですから、ご安心ください!」


 懸命に言い募る藍圭の面輪はうっすらと紅く染まっていて、本当に愛らしい。


「藍圭陛下にそう言っていただき、安堵いたしました」


 笑んだ声で告げた龍翔が一歩下がり、扉の前を藍圭に譲る。


「ありがとうございます」

 と、丁寧に一礼した藍圭が、扉の前に立ち、叩いて中へ声をかける。


「初華姫様、藍圭です。義兄上も一緒に来ておりますが……」


「これはこれは藍圭陛下。龍翔殿下も、お越しいただきましてありがとうございます」


 扉を叩いてすぐ、初華付きの侍女頭である萄芭の声がし、薄く扉が開けられる。


「龍翔殿下、申し訳ございませんが、先に藍圭陛下おひとりをお通しするようにとの初華姫様のご指示ですので、たいへん申し訳ございませんが、しばしお待ちいただけますか? 恐れ入りますが、浬角殿もお待ちくださいませ」


「ああ、わたしはかまわんが……。藍圭陛下、こんな日にまで初華がわがままを申しまして、深謝いたします」


 義兄をさしおいて、自分だけが先に入っていいものかと気遣うように見上げた藍圭に、先手を打って微笑んだ龍翔が、手のひらで扉を示す。


「申し訳ありません。では、先に失礼します」


 初華が藍圭だけを呼ぶとは、何か理由があるに違いない。


 一礼した藍圭が、後ろの浬角に待つように命じてから、萄芭が引いた扉の間に身をすべりこませる。途端。


「わぁ……っ!」


 藍圭の歓声が、扉が閉まる直前、廊下に洩れ聞こえてくる。


 とっさに身構えた浬角を、「心配いらぬ」と龍翔が苦笑して押しとどめる。


 いったい中で何が起こっているのだろう、と明珠が疑問に思っているうちに、ふたたび扉が開けられた。聞こえてきたのは初華の声だ。


「お兄様、お待たせして申し訳ございませんでした。皆様、どうぞお入りください」

 招きに応じて、龍翔を先頭に部屋の中へと入る。


 真っ先に明珠の目に入ったのは、彫像のように微動だにしない藍圭だ。そして。


「ふぁああ……っ!」


 藍圭の視線を追った明珠は、歓声を上げて、固まった。


 明珠だけではない。室内に入った者の視線を一身に集め、婉然えんぜんと微笑んでいるのは、真紅の花嫁に身を包んだ初華だ。


 銀糸で《龍》の刺繡が施されているだけでなく、宝石や金糸で花々がかたどられた花嫁衣装は、明珠がこれまで見てきた衣装の中で、一番豪華で華やかだ。しかも、それを纏っているのが、龍翔によく似た美貌の初華ともなれば。


「わ、私……、仙郷に迷い込んじゃったんでしょうか……!?」


 初華から目を離せぬまま、夢見心地に呟く。


 仙女が舞い降りたと言われても、今なら素直に信じられる自信がある。


 しかも、周りには初華だけでなく、龍翔や藍圭だっているのだ。きらきらまばゆすぎて、気が遠くなりそうだ。


「ふふっ、明順ったら。あなたの反応はいつも可愛らしいわねぇ」


 笑みをこぼした初華が、あらためて龍翔に詫びる。


「お兄様。せっかく来てくださったのに、お待たせして申し訳ございませんでした」


 頭を下げた拍子に、複雑に結い上げられた髪にしたいくつものかんざしの飾りが、しゃらりと澄んだ音を立てて揺れる。明かりを反射してきらめく様は、まるで数多あまたの星のようで、初華の美貌とあいまって、後光が差しているかのようだ。


 と、あざやかな紅を引いた初華の唇が笑みを描く。


「わたくし、どうしても花嫁姿を最初に藍圭様にお見せしたかったんですの」


「初華姫様……っ!」

 藍圭が感極まったように声を洩らす。


「嬉しいです……っ! 思わず見惚れてしまうほど、本当お綺麗で……っ!」


 先ほど、藍圭が入った瞬間、聞こえてきた声は、感嘆の声だったのだろう。


 魅入られたように初華を見つめたまま、藍圭が幸せそうに愛らしい顔をほころばせる。


「これほどお美しい初華姫様をめとれるなんて、わたしは三国一の幸せ者ですね」


「あら、それを言うならわたくしのほうですわ」

 ふふっ、と初華が笑みをこぼす。


「このように立派で凛々しい藍圭様に嫁げるなんて、わたくしこそ、三国一の果報者ですわ。どうぞ、幾久しくおそばにおいてくださいませ」


 しゃなり、と優雅な所作で初華が深々と頭を下げると、藍圭が金縛りから解けたように初華に駆け寄った。


「もちろんです……っ! わたしの正妃は初華姫様しかいらっしゃいません……っ! わたしこそ、ずっと隣にいてくださいと願わせてください……っ!」


「まあっ、藍圭様……っ!」


 小さな両手でぎゅっと初華の手を握り、力強く告げた藍圭に、初華が感極まった声を上げる。


 その声が潤んでいるように感じたのは、明珠の気のせいではないだろう。というか明珠自身、気を抜けば涙がこぼれてしまいそうだ。


 何よりも初華と藍圭のために、『花降り婚』が成就してほしいと心から願う。


 感動しているのは明珠だけではないらしい。


 浬角は今にも男泣きしそうなのを必死にこらえているし、目立たぬよう控えている萄芭も、手巾でそっと目元を押さえている。ふだんは冷徹な表情を崩さぬ季白でさえも、洩れそうになる声をこらえるかのように唇を引き結んでいた。張宇と周康も似たような表情をしている。


 そして、龍翔はといえば。


 明珠はそっと尊敬する主の横顔を見上げる。


 龍翔は、無言で初華と藍圭を見守っていた。黒曜石の瞳に宿るのは、得も言われぬ柔らかな光だ。包み込むようなあたたかなまなざしは、見ているだけで明珠の心まで、ぽかぽかとあたたかくなってくる。


 まだまだ何年も先のことだが、いつか順雪が結婚する時には、きっと明珠も同じような気持ちになるに違いない。


 いや、明珠の場合、感極まって、式が始まる前からおいおいと滝のような涙を流しそうだが。


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