123 金色の《龍》の刺繍 その2


「冗談のつもりはないのだが……。緊張しておるのか?」


 龍翔の大きな手のひらが、あやすようにもう一度頭を撫でてくれる。


「は、はい……っ。私なんて、ただただ端っこにいるだけですけれど、錚々そうそうたる方々と同じ舞台の上に立つのだと思うと、やっぱり……。あっ、すみませんっ。皇帝陛下の名代として《龍》を喚び出さないといけない龍翔様の緊張は、私の比じゃないですよね!?」


 身を縮めて詫びると、「謝る必要などない」と穏やかな声が降ってきた。


「お前に舞台に上がってもらうのは、お前を目の届くところにおいておきたいというわたしのわがままだからな。初華もお前にそばで祝福してほしいと願っておったし……。わたしや初華のわがままにつきあわせたせいで、負担をかけてすまんな」


「い、いえっ! 龍翔様こそ、謝罪なんてなさらないでくださいっ! 『花降り婚』を間近で見ることができるなんて、本当に光栄で……っ!」


 頭の上の龍翔の手が外れそうなほど、ぶんぶんとかぶりを振る。


「初華姫様と藍圭様のご婚礼を間近でお祝いできる喜びに比べたら、緊張なんて、どうということもありませんっ!」


 言い切った途端、季白の鋭い声が飛んでくる。


「『花降り婚』の素晴らしさに感動する気持ちはわからなくありませんが、浮かれて失態を犯してごらんなさいっ! 借金を倍増しますよっ! 今日のあなたは舞台の柱の一本です! 動かず話さず、ひたすらおとなしくしていなさいっ! 騒ぐなんてもってのほかですよっ!」


「ひぃぃっ! し、借金倍増……っ! は、はいっ! ちゃんとおとなしくします……っ!」


 恐ろしすぎる季白の宣言に、震えながらこくこく頷く。龍翔が秀麗な面輪をしかめた。


「季白。明珠を怯えさせるでない。借金倍増など、わたしが許すわけがないだろう。心配するな」


 頭をぽふぽふとしながら龍翔があやしてくれる。と、季白が切れ長の目を吊り上げた。


「龍翔様は小娘に甘すぎます! この小娘は本当に、放っておくと何をしでかすのか、まったく予想もつかぬのですから! 事前にしっかりきっちり言い聞かせておくべきです!」


「……まあ確かに、明珠が予想もつかぬ行動をすることがあるのは、お前の言う通りだが……」


「でしょう!? 今日の『花降り婚』では、決して失敗は許されないのですから、不安要素は事前に対処しておきませんと!」


「うぅぅ……っ。も、申し訳ございません……っ!」


 龍翔の季白の言葉に、消え入りたい気持ちでぎゅっと身を縮めて詫びる。


 蚕家でも乾晶でも、今まで明珠が龍翔達にとんでもない迷惑をかけてきたのは、まぎれもない事実だ。これまでにしでかしたことを考えると、どれほど謝罪してもし足りない。


 身を折りたたむように深々と頭を下げていると、あたたかく大きな手のひらに頬を包まれた。


「謝る必要などないと言っているだろう」


 明珠の頬に片手を添え、顔を上げさせた龍翔が、包み込むような微笑みを浮かべる。


「今までのことも、お前には何もとがはない。お前はただ、正しいと思うことをしただけなのだからな。それに、今日のことならば心配はいらぬ。わたしも同じ舞台にいるし、何より、お前のそばには張宇がついている」


「そうだよ、明順。俺がそばについているから安心してくれ。何かあった時は、気にせず頼ってくれたらいいんだぞ。俺だけでなく周康殿もいるからな」


 力強く頷いた張宇が笑みを見せる。腰にいた『蟲封じの剣』の柄に軽く手をかけた立ち姿はいかにも剣の腕が立ちそうで頼もしいことこのうえない。張宇のそばで、周康も恭しく頷いた。


「さようでございます。今日は、舞台の周りだけでなく、皆様の周りも《盾蟲》でお守りいたしますので……。どうぞ、ご安心ください」


「張宇や周康の言うとおりだ。二人だけではない。玲泉除けに萄芭とうはもお前のそばで控えておる。さすがに、式の間に余計な手出しはせんだろうが、まったく油断ならんのが彼奴あやつだからな」


 龍翔の黒曜石の瞳が剣呑な光を宿す。


「よいか? 舞台に行く舟から違うゆえ、大丈夫だとは思うが……。もし玲泉が話しかけてきても決してお前が応じるのではないぞ? もしどうしても話さねばならぬことがあれば、張宇か萄芭を通じて言え。お前が直接話すことは禁じる。いや、むしろ玲泉など無視しろ」


「えぇぇっ!? そ、そんな……っ! 私ごときが玲泉様を無視するだなんて……っ!」


 龍翔の無茶な要求に、思わず情けない声が出る。張宇が苦笑して龍翔をなだめてくれた。


「龍翔様。そこまでご心配されずとも大丈夫ですよ。刺客のこともありますし、さしもの玲泉様も、差し添え人としての務めを放棄されるようなことはなさいますまい」


 「刺客」という単語に、明珠の身体に無意識に震えが走る。


 そうだ。大事な『花降り婚』だというのに、昨日、安理が情報では、龍翔や藍圭の命を狙う刺客が現れるかもしれないという話なのだ。


 頬にふれた手のひらから、明珠の震えが伝わってしまったのだろう。龍翔が気遣わしげに形良い眉をひそめる。


「大丈夫だ。警備も万全の態勢を整えてある。決して、賊の好きになどさせぬ」


 己自身に言い聞かせるような硬い声。


 そうだ。見ているだけの明珠より、実際に皇帝の名代として『花降り婚』を執り行う龍翔のほうが、明珠などでは想像もつかぬ重圧を感じているだろうに。


「も、申し――、っ!?」


 謝罪を紡ごうとすると、不意に、龍翔の人差し指に唇を押さえられた。


 息を呑んで龍翔を見上げた明珠の視界に飛び込んだのは、見惚れずにはいられない力強い笑みだ。


「心配はいらぬ。お前がそばで成功を信じて見守ってくれるのならば――。どんなことがあろうとも、乗り越えてみせる」


 心の芯まで届くような、真摯な声。


「はいっ!」


 龍翔の指先が離れた途端、明珠は勢いよく頷く。


「もちろん、私も『花降り婚』の成功を信じておりますっ! 龍翔様だけでなく、初華姫様も藍圭陛下も、季白さん達も……っ! いろんな方が成就を目指して準備をしてきたんですから、成功しないはずがありませんっ! わ、私は何もお役に立てませんけれど……っ! でも、『花降り婚』の成就を心からお祈りもうしあげておりますっ!」


 ぐっ、と両手を握りしめて言い切ると、龍翔が破顔した。


「お前がそう祈ってくれるのなら、百人力だ」

 嬉しそうに告げた龍翔が、


「それに、お前が役に立っていないはずがないだろう?」


 と、不意に身を屈める。かと思うと、ちゅ、と額にくちづけられた。


「こうして『龍翔』でいられるのは、お前のおかげにほかならぬ」


「っ!? り、龍翔様っ!?」


 龍翔に役に立っていると言ってもらえるのは、心が弾むほどに嬉しい。だが、額にくちづける必要がどこにあるのだろう。


 ここには季白や張宇、周康だっているというのに、恥ずかし過ぎる。


 両手で額を押さえ、抗議の気持ちをこめて秀麗な面輪を睨み上げると、龍翔が小さく吹き出した。


「すまん。あまりに嬉しくて思わず……」


 柔らかな笑みを浮かべた龍翔がまばゆすぎて、抗議の言葉は喉の奥へと逃げていってしまう。


「い、いえ……。龍翔様が喜んでくださったのでしたら、その……」


 もごもごと呟くと、不意に季白がぱんぱん! と手を打ち鳴らした。


「さあさ! そろそろ初華姫様のところへ参りましょう! 出発前にお顔をお見せくださいと初華姫様に頼まれてらっしゃるのでしょう? そろそろ参りませんと」


「ああ、そうだな」


 明珠から身を離した龍翔が背筋を伸ばす。一瞬、名残惜しげに見えた表情は、すぐにいつもの凛々しいものへと戻る。


「初華の願いを無下にはできんからな。きっと初華も内心では緊張しておるのだろう。待たせては悪い。行くか」


 龍翔が身を翻し、歩を進める。


 黄金色こがねいろの《龍》の刺繡を纏った広い背中を、明珠は張宇と並んで追いかけた。


  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る