122 まぶたを開けた瞬間、秀麗な面輪が飛び込んでくる


 力強くあたたかなものにぎゅっと抱きしめられ、明珠の意識が覚醒する。


「りゅうしょう、さま……?」


 鼻をくすぐる高貴な香の薫りに、半分以上寝ぼけながら無意識に薫りの主の名前を紡ぐ。龍翔が、寝起きの明珠のそばになんているはずがないのに。


 うっすらとまぶたを開けた瞬間、目の前に飛び込んできたのは、とんでもなく整った龍翔の面輪だ。


 甘やかな微笑みにぱくんと心臓が跳ね、一瞬で頬が熱くなる。


「おはよう、明珠」


 耳に心地よく響く低い声が聞こえたかと思うと、ぎゅっと強く抱き寄せられ、混乱の渦に叩き込まれる。


 起きた瞬間、目の前に龍翔がいるなんて、いったいどういうことだろう。もしや、まだ夢の中にいるのだろうか。


「あ、あの……っ!?」


「どれほど感謝しても足りぬ。お前のおかげで、無事に今日を乗り越えられそうだ」


 優しく髪を撫でられながら告げられた言葉に、ようやく夕べのことを思い出す。


 そうだ、夕べ部屋に戻ってきた龍翔は、これまで明珠が見たことがないくらい疲れ果てていて。


 いつも毅然きぜんとしている龍翔とは思えないほどに、頼りなげな声で明珠に頼みごとをして……。


 だから、反射的に何も考えずに頷いてしまったのだ。


 明珠が龍翔のためにできることがあるならば、どんなことでもしたくて――。


「龍翔様っ! お加減はいかがですか!?」


 勢い込んで問うと、身体に回された腕にさらに力がこもった。なめらかな絹の衣が明珠の頬に押しつけられる。


「お前がずっとそばにいてくれたおかげで、一夜ひとよのうちに不調も飛んで行ってしまった。健やかな心地で大切なこの日を迎えられたのは、お前のおかげに他ならぬ。心から、感謝する」


 胸に迫るような声音に、本当によかったと心から安堵する。


 が、息が苦しくなるほどに抱きしめられたこの状態では落ち着いて喜ぶどころではない。


「龍翔様が回復されて、本当によかったです……っ! ですが、あの……っ!」


 お放しください、と頼むより早く、龍翔の腕が緩む。ほっとしたのも束の間。


「明珠」


 飴玉あめだまを転がすように甘く名を呼ばった龍翔が、ちゅ、と額にくちづける。


「ひゃあっ!? な、なにを……っ!?」


「お前のおかげで回復したとはいえ、今日は《龍》をばねばならぬ。それには《気》が心もとない。……くちづけても、よいか?」


「く……っ!? は、はい……っ! 《気》が必要なのでしたら、いくらでも……っ!」


 あらためて問われると恥ずかしすぎる。だが、明珠が龍翔に仕えられているのは解呪のためなのだから、断る理由なんてあるはずがない。


 ぎゅっと握りしめていた守り袋をさらに強く握りながらあわあわと頷くと、龍翔の面輪が嬉しげな笑みに彩られた。かと思うと、


「明珠」


 もう一度、宝物を確かめるように名を紡いだ龍翔の面輪が下りてくる。


 ぎゅっと固く目を閉じた明珠の唇を熱く柔らかなものがふさぐ。


 いつもよりも、深いくちづけ。

 ただでさえ、あたたかな布団の中で龍翔と密着しているというのに、これ以上、熱を与えられたら融けてしまうのではないかと不安になる。


 明珠を抱き寄せていた龍翔の片手が腰から背中へとすべり、夜着を撫で上げられるだけで背筋にさざなみが走る。


「んぅ……っ」


 くぐもった声が洩れてしまい、恥ずかしさに身動みじろぎして離れようとしたが、龍翔の腕は緩まない。


 このまま、龍翔の熱と薫りに溺れるのではないかと心配になったところで、ようやく唇が離れた。


 ほっとして、詰めていた息を吐き出したところで。


「すまんが、《龍》を喚ぶにはまだ足りん」


 低く囁いた龍翔の手が明珠の頬を包む。


「あの……、っ!?」

 待ってください、と言うより早く、ふたたび唇をふさがれる。


「んぅっ」


 燃えるように熱い唇。


 頬を包む手も同じように熱いのは、明珠の熱がうつったからかどうなのか、混乱する明珠には判断がつかない。


 龍翔の大きな手が頬から耳朶じだへとすべり、長い指先が髪をく。それだけで背筋に漣が走り、くらくらと気が遠くなりそうだ。


 無意識に、守り袋を握っていないほうの手ですがるように龍翔の胸元を掴むと、背中に回されていた龍翔の腕に力が籠もった。


 引き締まった身体が明珠を抱き潰さんばかりに密着したかと思うと、こらえるように拳が握りこまれる。


「……復調したのは喜ばしいが……。これはこれで、困ってしまうな」


 唇を離した龍翔が、困り果てた声をこぼす。


「す、すみません……っ! いつまでもうまく《気》のやりとりができなくて……っ!」


 恥ずかしさと情けなさに、目を閉じたまま、うつむいて詫びると、「そうではない」となだめるように優しく頭を撫でられた。


「お前はよくやってくれている。ただ……。お前が愛らしすぎて困るのだ……」


「ふぇっ!?」

 予想もしない言葉に、すっとんきょうな声が飛び出す。


「り、龍翔様ったら、なんという冗談をおっしゃるんですか! びっくりして、ただでさえどきどきしている心臓が飛び出すかと思いました!」


 守り袋を握りしめた手で、ぎゅっと胸元を押さえていなければ、口から心臓が飛び出しそうだというのに……。


 こんな時にからかうなんて、冗談が過ぎる。

 思わず抗議すると、龍翔が苦笑する気配がした。


「冗談などではないのだが……。信じてもらうには、時間が足りぬようだな」


 龍翔の呟きと同時に、隣室に通じる内扉が叩かれる。聞こえてきたのは季白の声だ。


「龍翔様。そろそろご起床いただかねばならぬお時間でございますが……。お身体の調子はいかがでございますか?」


 気ぜわしい口調は、龍翔の返事次第ではすぐに扉を開けて押し入ってきそうだ。


「案ずるな。すでに目覚めておる。身体の調子も、すっかり回復していつも通りだ」


まことでございますか!?」


 いや違った。止める間もなく入ってきそうだ。


「すぐにそちらへ着替えに行くゆえ、少し待て」


 龍翔が季白を止めてくれてほっとする。もし龍翔の寝台に一緒にいるところを見られたら、「なんて不敬なことをっ!」と特大の雷が落ちてきそうだ。何より、恥ずかしすぎて、顔が爆発してしまう。


「まったく、彼奴あやつは……」


 溜息まじりに呟いた龍翔が、明珠を抱きしめていた腕をほどき、身を起こす。あわてて明珠も起きようとすると、「もう少し待て」と掛布をかけ直された。


「わたしが隣室に行ってから起きるといい。……寝乱れた姿を、季白達に見られるわけにはいかんだろう?」


「っ!? は、はい……っ」


 龍翔の言う通りだ。掛布を抱きしめ、こくこくと頷くと、あやすように頭を撫でた龍翔が寝台から下りた。


 背筋を伸ばし、内扉へ歩む後ろ姿はいつも通りの凛々しさで、不調を抱えているようにはまったく見えず、明珠は心からほっとする。龍翔が回復して、本当によかった。


 今日の『花降り婚』は、初華の厚意で龍翔の従者である明珠も、舞台に上がり、端から式の様子を見せてもらえることになっている。そのため、第二皇子の従者にふさわしい立派な衣装も用意してもらっていた。


「私も早く着替えなきゃ」


 支度に時間がかかっては、季白に叱責されるに違いない。


 龍翔が隣室へ移動したのでそろそろと掛布を取り、寝台から下りる。龍翔が「寝乱れた姿」と言っていたので、どんなあられもない姿になっているのか心配だったが、少し乱れている程度で、ほっとする。


 そもそも、あんなにぴったりくっついていたら、見ようがないはずだ。


 と、そこまで考えて恥ずかしさに畳もうとしていた掛布を思わずぎゅっと抱きしめる。毎夜、龍翔が眠っているからだろう。ふわりと龍翔の衣に焚き染められているのと同じ、香の薫りが揺蕩たゆった。


 その薫りに、反射的に先ほどのくちづけや夕べのことを思い出す。


 解呪のためとはいえ、ひと晩、龍翔の腕の中で眠ったなんて……。


「わ――――っ!」


 脳内に浮かんだ記憶を吹き飛ばすように、意味もなく声を上げ、ばっさばっさと掛布を振り回す。


 だめだ。これ以上考えるのはだめだ。危険すぎる。


 これから大事な儀式があるというのに、のぼせて倒れたりしたら、龍翔や初華に多大な迷惑をかけてしまう。


「そうっ、着替え! 早く着替えをしなくっちゃ……っ!」


 自分に言い聞かせるように、こくこく頷き、明珠はこれ以上薫りを吸い込まないように息を止めて掛布を畳むと、自分の荷物を置いてある衝立ついたての向こうへと駆け込んだ。


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