118 安理の報告 その1


「明順! 確認したいことがあります!」


「ひぃっ!? き、季白さんっ、どうしたんですか!?」


 ばぁんっ! と龍翔の部屋の扉を勢いよく開け放った入ってきた季白の剣幕に、張宇と一緒に昼食がのった皿を卓に並べていた明珠は、あやうく皿を落としそうになった。


「おっと」

 と、張宇がすかさず大きな手で皿を支えてくれる。


「季白。急に血相を変えてどうした? 今日は周康殿と一緒に龍翔様のお供についているはずじゃ――」


 穏やかに問いかける張宇を無視して、季白がつかつかと足早に明珠に歩み寄る。


 明珠の目には、季白の背後にごぅんごぅんと紫電をはらんで渦巻く黒雲の幻が見えた。逃げることも、かといって視線を外すこともできずに固まる明珠の目の前で季白がぴたりと足を止めたかと思うと。


「ちゃんと龍翔様と朝晩しっかりと《気》のやりとりはしているのでしょうねっ!? 万が一にも手を抜いていたら承知しませんよっ!?」


「ひいぃぃぃっ!」


 両肩をがしっと掴み、ずいっと迫ってきた季白の鬼のような形相に、明珠の口から情けない悲鳴がほとばしる。


 怖い。冥府の鬼より借金取りより、季白が一番恐ろしい。


 両方のこめかみから角でもはやすのではないかと思える季白の顔つきに、がくがくと身体が震える。痛いほど両肩を掴まれていなければ、恐怖のあまり床にへたり込んでしまいそうだ。と。


「どうした季白。少し落ち着け。明順が怯えているだろう?」


 声と同時に、張宇が明珠と季白の間に割って入ってくれる。明珠と季白の間にさしこまれたたくましい腕に、明珠は反射的にすがりついた。


「いったい何があったんだ? 龍翔様のお供を途中で切り上げてまで、お前が明順を問いただしに来るなんて……。もしや、龍翔様の御身おんみに何かあったのか!?」


 張宇の凛々しい顔が険しくなる。


「いえ……。龍翔様が具体的にお口に出されたわけではないのですが……」


 怜悧れいりな面輪に苦い表情を浮かべ、明珠の肩から手を外した季白が、その手をきつく握りしめる、


「どうにも、嫌な予感がしてならないのです。黒雲が渦巻くかのように胸がとどろき……。そう、まるで龍翔様が禁呪をかけられた時のように――」


「っ!?」

 季白の言葉に張宇が鋭く息を飲む。


「まさか、禁呪が強まったりしているのか!? ここ数日、龍翔様のご様子が思わしくなさそうに見えるのはもしや……っ!?」


 龍翔が禁呪をかけられたのは、明珠が蚕家に侍女として奉公する前だ。そのため、明珠は禁呪をかけられた当初の龍翔がどんな様子だったのかは知らない。けれど。


 まだ『英翔』と名乗っていた頃の少年の小さな手を思い出す。明珠の手よりも小さな、幼い少年の痩せた手。


 龍華国を出発して以来、ずっと『龍翔』として過ごすようになっていたため、もう一か月以上、英翔の姿を見ていない。


 前は、英翔に会えるだけで順雪を思い出せて嬉しかったのに、いまは。


 英翔に会えない寂しさよりも、龍翔が本来の自分の姿でなすべきことをなしている姿を見られることが、嬉しい。


 その龍翔にかけられた禁呪が強まっているかもしれないなんて……っ!


「き、季白さんっ! 本当に龍翔様にかけられた禁呪が強まっているんですか!? 確かに、最近お疲れのご様子ですけれど、うかがっても慣れぬ暑さと忙しさで疲れているだけだとおしゃって……っ!」


「ええ。わたしが尋ねても同じことをおっしゃいました。きっとわたし達にいらぬ心配をかけまいと……っ! 嗚呼っ! ご自身が不調だというのに、従者達を気遣うお優しさ……っ! さすが海よりも深い慈愛のお心をお持ちの龍翔様です! ですが、龍翔様に頼っていただくことこそ、わたしの喜び……っ! 龍翔様の御為おんためならば、この季白、どのようなことでも成し遂げてみせますのに……っ!」


 ぐっと拳を握りしめて敬愛する主への思いを紡いだ季白が、我に返ったように咳払いする。


「ともかく! わたしの勘がひしひしと訴えているのです! 今回の龍翔様のご不調は、単なる疲労などではないと!」


 龍翔を敬愛するあまり、季白が龍翔のことに関してだけ、常人の域を超えた勘のよさを発揮するという話は乾晶に旅立つ前に聞いた覚えがある。そのせいで、蚕家に侍女奉公した当初の明珠をひどく疑っていたのだと。


 季白がこういうのだから、龍翔の不調は間違いないに違いない。龍翔のそばを離れるのをよしとしない季白が、意を曲げて明珠のところへ確認に来たのも頷ける。


「朝夕の《気》のやりとりは、しっかりと務めているのでしょうね!?」


 もし「否」と言ったら許さない。言外にそんな雰囲気を漂わせて季白が詰め寄る。


「も、もちろんです!」

 こくこくこくっ! と何度も深く頷き返す。


「ちゃんと朝起きた時と、夜寝る前にいつもしています! ……あ、でも……」


「何ですか!?」


「ひぃぃっ!」

 季白の剣幕に思わず悲鳴がほとばしる。


「い、いえっ、その……っ! 龍翔様は最近、あれこれ《蟲》を召喚されることも多いのでしょう? そのせいで、《気》が不足がちになっている、とか……?」


「それはありえないでしょう。以前はともかく、周康殿も合流して、《氷雪蟲》や《盾蟲》などは周康殿が喚ぶことも多くなりましたからね。それに、龍翔様ともあろう御方が、万が一にも《気》が足りなくなって青年姿を保てなくなるような事態を引き起こされるとは、考えられません」


 明珠の推測を季白がひとことの下に切り捨てる。


 確かに、季白が言う通りだ。

 龍翔が禁呪に侵されていることは、決して他の者に知られるわけにはいかない。晟藍国に嫁ぐ初華に心配をかけまいと、龍翔は初華にさえ禁呪のことを打ち明けていないのだから。


「で、では、本当に龍翔の禁呪が何らかの影響で強まって……っ!? それとも、私の解呪の力が弱まって……っ!?」


「ふむ……。あなたの解呪の力が変化した可能性は考えていませんでしたね……」


 季白が考え深げに呟くが、明珠の耳にはろくに入らない。


 身体が震えて、張宇の腕にすがりついていなければ、膝から床にくずおれてしまいそうだ。と。


「っ!?」


 不意に張宇が鋭く息を呑んで窓を振り返る。露台が備えつけられた床から天井近くまである大きな窓。


 その硝子戸を押し開け、するりと室内に身をすべりこませたのは。


「……安理。驚かせるな。急に窓から姿を現すなんて……。侵入者かと斬りかかるところだったぞ」


 張宇が大きく息を吐いて緊張を緩める。だが、すぐに凛々しい面輪がふたたび引き締まった。


「どうした? 何かあったのか?」


「安理さん……?」


 明珠もおずおずと声をかける。いつだって飄々ひょうひょうとした笑みを浮かべている安理の表情が、やけに硬い。


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