117 (幕間)虎は宵闇に嗤う その1


「雷炎殿下。螘刑ぎぎょうが参っております」


 瀁淀の屋敷の一室で開かれた歓迎の宴から辞し、屋敷内の割り当てられた客室に戻ってきた雷炎は、廊下で出迎えた従者に恭しくしく告げられた。


「ほう?」


 予想していなかった名前に、低い声を洩らすと、雷炎の機嫌を損ねてしまったと思ったのか、来訪を告げた従者が怯えたように肩を震わせる。


「い、いかがいたしましょうか? 殿下がお望みでなければ即座に追い返し――」


「口を慎め。お前ごときが俺の心を推測するなど不敬極まりないだろう?」


「も、申し訳ございませんっ!」


 雷炎のひとことに、従者が雷に撃たれたように身を震わせて詫びる。従者の様子になど頓着とんちゃくせず、


「螘刑は中か?」

 と問うと、「さようでございます!」と従者がさっと扉を押し開けた。


「まもなく妓女が来る。隣室で待たせておけ。余計な詮索はさせるなよ」


 従者に目もくれず命じ、室内に入ると、扉のすぐそばに影のように螘刑が片膝をついてこうべを垂れて控えていた。


 瀁淀の屋敷の使用人に疑われぬためだろう。仕事を行う時の黒ずくめではなく、従者用のお仕着せを着ているが、明らかに堅気かたぎではないすさんだ気配を放っている。


「何用だ? ついに子亀をほふったか?」


 こうべを垂れたままの螘刑に尋ねる。


 今日は午前中から瀁淀の屋敷に招かれたため、藍圭とは別行動だ。

 とはいえ、《龍》の力を持つ龍翔がそばにいて、手出しを許すはずがあるまい。


 答えを知りつつ問うと、案の定、螘刑から否定の言葉が帰ってきた。


「誠に申し訳ございません。ですが……。『花下り婚』にて、必ずや子亀を亡き者にしてみせます。そのための助太刀を見つけました」


「ほう?」


 予想していなかった螘刑の宣言に、部屋の奥に進んだ雷炎はどかっと長椅子に座り、ひざまずいたままの螘刑を見下ろす。


「助太刀とは……。いったい何者だ? 信の置ける者なのだろうな?」


 前国王夫妻の暗殺に震雷国が関わっているという証拠を、間違っても余人に掴まれるわけにはいかない。前国王夫妻はあくまでも『不幸な事故』で亡くなったのだ。


 万が一、螘刑が捕まる事態になるくらいなら、その前に雷炎の手で斬り捨てようと、跪く螘刑を見ながら、雷炎は心の内で冷徹に考える。


 剣も扱える珍しい術師を喪うのは惜しいが、螘刑ひとりの命で、晟藍国――ひいては後ろ盾についた龍華国との戦争が回避できるならば、安いものだ。


 晟藍国の富は魅力的だが、いくさを巻き起こしてまで手に入れるものではない。そもそも、戦乱が起これば、商人達の活動が低下し、晟藍国の魅力が半減してしまう。表向きは平和であってこそ、商人達も異国と活発に交易し、奢侈品しゃしひんが売れ、晟藍国が富んでいくのだから。


 雷炎の問いに、螘刑が言葉を選ぶようにしながらゆっくりと答える。


「助太刀する人物は、術師としての腕前はわたしに並ぶと言っても差し支えないほどですが、信の置ける者かと問われますと……。ある一点においてのみ、この上なく信用できると申せます」


「言葉が足りん。俺は謎かけのような問答は好まん。伝えるべきことがあるならはっきり申せ」


 螘刑に向ける視線に圧を込めると、「ははっ、申し訳ございません」とさらに深く頭を垂れた螘刑が、慎重な様子で問いを口にした。


「わたしは淡閲たんえつにて遠目に姿を見たのみですが……。雷炎殿下は龍華国の第二皇子である龍翔殿下と顔を合わせてらっしゃるかと存じます」


「ああ、無論だ」


 頷きながら、雷炎は脳裏に凛々しい美丈夫の姿を思い描く。


 龍華国の皇族に会ったのは龍翔と初華が初めてだが、その名は五年も前から聞いていた。


 五年前の『昇龍の儀』で、見事な《龍》をび出し、彗星すいせいのように表舞台へ躍り出た龍華国の第二皇子。


 母親の身分が低いにもかかわらず、強い《龍》の力を身に宿すゆえに、第一皇子、第三皇子にうとまれ、命を狙われ続けながら、殺されるどころか、皇帝から下された命を遂行し、一歩一歩着実に地歩を固めつつある青年だ。


 特に、差し添え人として晟藍国へ来る直前、北西地方の要衝である乾晶けんしょうにおいて、総督官邸を襲った賊を捕らえたばかりか、龍華国へ侵攻しようとしていた砂波国さはこくの軍を《晶盾族しょうじゅんぞく》の助力を得て、干戈かんかを交えることなく引き返させたという話は、龍華国の王都に放っている密偵から、驚愕とともに震雷国へもたらされた。


 乾晶の件と、龍華国と晟藍国が『花下り婚』の盟約を結び、差し添え人として龍翔が選ばれたという報告が同時に雷炎のもとへもたらされた時に、すでに雷炎の心は決まっていたのだ。


 今後、震雷国が龍華国を攻めるにあたり、最大の障害となるであろう龍翔に、ぜひとも直接会って、言葉を交わしてみたいと。


 予告もなしにお忍びで晟藍国を訪れた雷炎の真の目的は、『花下り婚』を言祝ことほぐことでも。藍圭の暗殺に失敗した瀁淀を責め立てることでもない。龍翔の人柄や能力を、この目で確かめるためだ。


 龍翔のことを思うだけで、雷炎の身の内に、歓喜とも敵対心ともしれぬ獰猛どうもうな感情がふつふつと湧いてくる。


 大陸の覇者となることを目指している震雷国にとって、龍華国は目の上のこぶだ。だが、龍華国は大国であることに胡坐あぐらをかき、まつりごとに興味のない暗愚な皇帝が数代続いた結果、ゆっくりとだが、確実に内側から腐り始めている。


 そこに現れたのが龍翔だ。


 第一皇子派、第三皇子派といった政敵に囲まれ、常に失脚を画策されている青年。


 だが、もし龍翔が大勢の予想を覆し、帝位につく未来が来たのならば?


 その未来を考えるだけで、腹の底からわらいがあふれ出してくる。


 皇帝である父と、皇太子である兄は、龍翔が政敵の刃に倒れ、志半ばで没することを望むだろう。わざわざ強敵と戦って、震雷国を疲弊させる必要はないと。


 だが、雷炎にしてみれば、好敵手を降さずして龍華国を滅ぼしたとして、何が楽しいのか。


 死に物狂いで立ち向かってくる獲物を全力で降し、己の力を見せつけてこそ、勝利の美酒も甘美だというのに。


 雷炎は我知らず笑みをこぼす。


 失脚を狙う政敵達の魔の手を逃れ、功績を積み上げていることから、血も涙もない冷徹極まりない男だろうと想像していた。そうでなければ、魑魅魍魎ちみもうりょうの渦巻く王城で生き抜けはしないだろうと。


 砂波国の侵攻を防いだのも、公にはできぬような冷酷な計略を使ったに違いないと。だが。


 実際に会ってみた龍翔は、雷炎相手に一歩も退かぬ胆力や、対等に渡り合う有能さは推測の範囲内だったが……。


 政略結婚の駒である妹姫を大切に思い、また義弟となる藍圭を慈しむ様子は、雷炎の予想の埒外らちがいだった。


 あのように甘い性格で今までよく生き長らえてこられたものだ。ある意味、感嘆に値する。


 それとも、龍華国の皇族や高官達は、龍翔ひとり追い落とせぬほど愚かな烏合の衆ということか。


「で、龍翔殿下がどうしたのだ?」


 まだ見ぬ未来への妄想が先走りそうになっていた雷炎は、己を押し止めると螘刑に問う。

 螘刑が視線を伏せたまま、恭しく答えた。


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