113 華揺河に沈む決心がつきまして? その2


 険しい顔で唇を引き結ぶ藍圭に、初華が優しく話しかける。


「藍圭様。そのようなお顔をなさらないでくださいまし。富盈殿が瀁淀を見限ってこちらにつくというのは、確かに魅力的ですけれど……。藍圭様がお望みでなければ、会う必要はないと思いますわ」


「は、初華姫様っ!?」


 理性では、藍圭も富盈を味方につけるのがよいことはわかっているのだろう。それを、まさか初華があっさりと断るとは思っていなかったに違いない。


 驚いた声を上げる藍圭には答えず、初華が玲泉に冷ややかな視線を向ける。


「玲泉様。ご尽力には感謝いたしますが、もう少し、藍圭様のお気持ちを考えてくださいませ。いくら富盈殿が味方になれば、瀁淀の力を大きくぐことになるとはいえ、藍圭様にとっては因縁のある相手なのです。急に、会って味方に引き込めと言われても、素直に頷けるものではございませんでしょう?」


「い、いえっ! その……っ!」


 玲泉を責めるかのような初華の声にあわてた声を上げたのは、当の玲泉ではなく藍圭だ。


「初華姫様、お待ちくださいっ! 玲泉殿は何も悪くありませんっ! わたしのために、富盈殿を取り込むべく、尽力してくれたのですから……っ!」


 玲泉に向き直った藍圭が、深々と頭を下げる。


「玲泉殿、誠にありがとうございます。玲泉殿が瀁淀の屋敷に滞在し、動きを封じてくださったおかげで、妨害されることもなくなり、『花下り婚』の準備は順調に進んでおります。それだけではなく、芙蓮姉様とも話す機会を持つことができ……。なんと感謝を申しあげたらよいことか。そればかりか、今度は富盈殿と密かに会う段取りまでつけていただき……」


「藍圭陛下。どうぞお顔をお上げください。もったいないお言葉でございます」


 ふる、とかぶりを振った玲泉が、我が身の至らなさを嘆くかのように哀しげに吐息し、頭を下げる。


「わたしはただ、瀁淀を失脚させるには、汚職に手を貸した富盈殿を引き込むのが手っ取り早いと考えたまで……。ですが、初華姫様がおっしゃることももっともでございます。藍圭陛下のお気持ちにまで考えが及ばず、申し訳ございません」


 玲泉の様子に、藍圭がますますあわてた様子でぶんぶんと両手を動かした。


「れ、玲泉殿こそおやめくださいっ! 玲泉殿はただ、わたしや初華姫様のために、よいと思われたことをしてくださっただけなのですから……っ!」


 藍圭の言葉にも、玲泉は顔を伏せたまま、上げようとしない。

 根負けしたように、先に大きく息をついたのは藍圭だった。


「そう、ですね……。自分自身で言った通りです……。玲泉殿は『花下り婚』の成就のために、最善と思われる手を打たれただけ。わたしが富盈殿に隔意を抱いているという理由だけで、せっかくの玲泉殿の働きを無に帰すなど……。していいはずがありません」


 胸中にわだかまる感情を吹き飛ばずように、もう一度大きく息を吐いた藍圭が、きっぱりと宣言する。


「富盈殿と会います」


 驚いたように顔を上げた玲泉を、藍圭が真っ直ぐに見つめる。


「玲泉殿。誠にありがとうございます。せっかくの玲泉殿が作ってくださった機会を、決して無駄にはいたしません。何としても、富盈殿をこちらの味方にしてみます」


「お見事な心映えでございます!」

 玲泉が感嘆の声を上げる。


「有効な策と頭では理解していながらも、好悪の感情に囚われて好機を逃してしまう者は、大人であっても多いもの。己の感情を律し、取るべき手段を的確に選べる藍圭陛下は、やはり晟藍国の国王としてふさわしい御方と存じます」


「いえ……」


 玲泉の賞賛に、藍圭が照れたようにかぶりを振る。


「富盈殿と会ってもよいと思えたのは、初華姫様のおかげです。初華姫様が、わたしの気持ちをおもんぱかってくださったから……。だから、会う決心がつけられたのです。それと」


 隣に座る初華を振り返った藍圭が、悪戯っぽく微笑む。


「玲泉殿に厳しいお声をかけられたのは、わざとでしょう? そうすれば、わたしが玲泉殿を庇うに違いないと……。見事に、初華姫様の思惑に乗せられてしまいました」


「あら……」

 くすり、と初華があでやかな笑みをこぼす。


「藍圭様には、わたくしの浅慮などお見通しでしたわね。けれども、どうぞ誤解なさらないでくださいませ。先ほど申しあげた言葉は、わたくしの本心でございます。人の上に立つ者は、往々にして己の感情を後回しにして、大勢を見て最善の策を取らねばならぬもの……」


 権謀術数渦巻く龍華国の王城でかごの中の鳥として暮らしてきた日々を思い出しているのか、初華の表情が暗く沈む。


「ですが」


 過去を振り切るかのように、初華が力強い声とともに面輪を上げた。


「国王であっても、ひとりの人間であることに変わりはありません。どうか、最善を求めるあまり、己の感情をないがしろにはなさらないでくださいませ。外に出すことは叶わなくても、陛下のお気持ちはわたくしがちゃんと受け止めます。どうか、わたくしには陛下の怒りも哀しみも、隠しことなくお教えくださいませ」


「初華姫様……っ!」


 にこやかに微笑んで告げた初華の言葉に、藍圭が目をみはる。その目が潤みを帯びた。


「ありがとうございます……っ! 初華姫様がいてくださったら、わたしはどんな苦難も乗り越えてゆける気がします……っ!」


 藍圭の気持ちが、龍翔には手に取るようにわかる。


 王城で政敵に囲まれて過ごす中で、いままで何度、己の意志を押し殺し、意に染まぬ命に従ってきたことだろう。


 それが、生き残るためだと……。わずかな一歩であろうと、味方を増やし権威を高めることが、皇位に近づくための道だと頭では理解していても、感情まですぐに納得できるわけではない。


 龍翔のやりきれぬ気持ちをいつも受け止めてくれたのは張宇や季白達だ。心から龍翔に仕えてくれる彼らがいてくれたからこそ、ここまで来られたと言って過言ではない。


 そして今は。


 愛しい少女の姿が龍翔の心に思い浮かぶ。


 些細なことで一喜一憂し、素直な感情を見せてくれる明珠。龍翔を一途に思いやってくれる優しさに、いつもどれほど癒されていることか。


 明珠とともに歩んでいくためならば、どんな苦難も乗り越えられる気がする。


 藍圭と初華も互いに同じ気持ちでいるに違いない。


「玲泉殿。どうぞ富盈殿と会う詳細をお教えください」

 椅子に座り直した藍圭が玲泉を見つめて告げる。


「かしこまりました。藍圭陛下のご決心を嬉しく思います」


 満足そうに頷いた玲泉が詳細を説明するのを、龍翔もまた満ち足りた気持ちで耳を傾けた。


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