113 華揺河に沈む決心がつきまして? その1


 龍翔と玲泉が王城の同じ階にある藍圭の私室へ向うと、ちょうど藍圭と初華も朝食を食べ終えたところだった。


「義兄上? それに玲泉殿まで……。何かあったのですか?」


 ふたりを出迎えた藍圭が、驚きつつも丁重に出迎えてくれる。


 玲泉を睨みつけ、部屋の片隅にとまる《氷雪蟲》よりも冷ややかな声を上げたのは初華だ。


「あら。玲泉様が王城へ来られるだなんて、雷炎殿下の歓迎の宴以来ですわね。何かよい知らせでもお持ちくださいましたの? それとも、華揺河に沈む決心がつきまして? おととい、宴の後に安理からご注進がありましたの。芙蓮姫をこちらへ引き入れる陰で、とんでもない策を企んでいたのですって? 今朝いらっしゃるとわかっていれば、わたくしの侍女をずらりと並べてお出迎えいたしましたのに」


 座った目で告げる初華の目は本気だ。


 安理の注進の内容は、芙蓮を龍翔にけしかける裏で、玲泉が明珠を我が物にしようとしていた件だろう。


 芙蓮を龍翔けしかけたというだけで玲泉に怒っていた初華が、明珠のことを聞いて怒らぬはずがない。


 端然と座しているにもかかわらず、初華の後ろには雷が轟く黒雲が見えるかのようだ。


「わたくし、大切なお友達をないがしろにする者に慈悲の心は持ち合わせておりませんの。さあ、玲泉様。どちらがよろしいかしら? いいえ。両方がよいですわね。すぐに侍女達を呼び寄せて――」


「お、お待ちください、初華姫様!」


 女人にふれられると体調を崩す玲泉が、珍しく本気であわてた声を上げる。


「安理から話を聞いたのでしたら、わたしの企みが失敗に終わったこともお聞き及びでしょう? 未遂だったのですから――」


「未遂だったとしても、罪は罪。わたくしの大切な友人をだまそうとしたことには変わりませんわ」


 初華がひとことの元に玲泉の言葉を叩き斬る。


「あ、あの、初華姫様……?」


 これほど激怒している初華を見るのは、藍圭も初めてなのだろう。腰が引けた様子で、藍圭がおずおずと初華に呼びかける。


「まさか、初華姫様がそこまで明順のことをお気に召しておられたとは……」


 玲泉が驚きにかすれた声で呟く。初華が昂然こうぜんと顔を上げた。


「当然でございましょう? あれほど、一緒にいて心癒される者は滅多におりませんもの。お兄様のことを抜きにしても、わたくし、明順をことほか気に入っておりますの。ですから、その明順に無体な真似を働こうとするなんて……。二度とそんなことを考えぬよう、しっかりと釘を刺しておかなくては。ええ、それこそ華揺河の川底にくいで打ち込むほどに」


 初華の目が剣呑に細まる。藍圭が意外そうな声を上げた。


「明順、ですか……? 義兄上の従者の少年ですよね? あの、わたしのために泣いてくれた……。初華姫様は、それほど明順のことを気に入ってらっしゃるのですか……?」


 尋ねた藍圭の声が、不安そうに揺れる。


「それは、弟のように思ってらっしゃるということでしょうか……? それとも、その……」


「まあっ! 藍圭様ったら!」


「は、初華姫様っ!?」


 ねたような表情を見せた藍圭を、弾んだ声を上げた初華がやにわに抱き寄せる。顔を赤くした藍圭が驚いた叫びを上げた。


「ご心配には及びませんわ。わたくしが想いを寄せているのは、藍圭様ただおひとりですもの。明順は、あくまでも友人として大切に思っているだけですわ」


 くすくすと楽しげに笑いながら、歌うように初華が告げる。緩んだ口元は、藍圭が初めて見せた嫉妬を喜んでいるのが明らかだ。


 少女なので当然なのだが、小柄で声が高いこともあり、少年従者の姿をしている時の明珠は、十代前半に見える。藍圭が自分と比べてもやもやする気持ちを抱いてしまうのも当然かもしれない。


 もし明珠が愛らしい少女だと知ったら、いったい藍圭はどんな反応を示すだろうか。ふとらちもないことを考えた龍翔の耳に、藍圭の戸惑った声が届く。


「は、初華姫様っ、お放しください……っ! 義兄上や玲泉殿もいらっしゃるというのに……っ」


 ぎゅうっ、と初華に思い切り抱きしめられた藍圭の顔は真っ赤になっている。人前で抱きつかれて恥ずかしいのか、それとも初華の言葉に照れているのか、見ただけでは判然としない。


「藍圭様にそのように想っていただけるなんて……。嬉しいですわ」


 喜びに弾む初華の言葉に、藍圭の愛らしい面輪がますます紅くなる。


「す、すみません。情けないところを……」


「あら。そんな風におっしゃらないでくださいませ。わたくし、とても嬉しかったのですもの」


 うふふ、と笑って腕をほどいた初華が椅子に座り直す。


「玲泉様。藍圭様のお可愛らしさに免じて、今だけはひとまず不問にして差し上げますわ。その代わり、次にまた良からぬ企みをした時には……。次こそ、容赦しませんわよ?」


 藍圭に向けていた笑顔とは打って変わって厳しいまなざしを玲泉に向けた初華が、冷ややかな圧を発する。


「……藍圭陛下には感謝しなければなりませんね。おかげで命拾いできました」


 ようやく表情を緩めた玲泉が、大きく息を吐く。


「大切なお話をお伝えする前に、華揺河に放り込まれるわけにはまいりませんからね」


「そ、そうです。義兄上と玲泉殿がそろっていらっしゃったなんて……。何があったのですか?」


 姿勢を正した藍圭が、不安そうなまなざしを龍翔と玲泉に向けてくる。藍圭の不安を払うように、龍翔はゆったりと微笑んだ。


「ご安心ください。藍圭陛下が不安に思われるような話ではございませんゆえ。くわしくは、実際に力を尽くした玲泉よりご報告いたします」


「藍圭陛下。わたしが瀁淀の屋敷に滞在しておりましたのは、瀁淀の暗躍を制限し、怪しい動きがあれば、すぐにご報告するためでしたが、他にも目的がございました」


 龍翔の後を受け継ぎ、表情を改めた玲泉が先ほど龍翔達に話したのと同じ、富盈と密かに会談する段取りをつけた旨を藍圭と初華に報告する。


「富盈殿と、ですか……。それは……」


 玲泉が危惧した通り、話を聞いた途端、藍圭の眉がきつく寄る。


 当然だろう。藍圭にとっては、瀁淀と手を組んで『花降り婚』の妨害をした相手なのだから。会合の場を整えたと言われても、素直に頷けるはずがない。


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