110 蚕家の令嬢になりませんか?


「さて明珠。あなたに大切な話があります」


「は、はいっ!」


 朝食後、すっかり食器が片づけられた卓で、向かいに座る季白におもむろに声をかけられ、明珠はぴんと背筋を伸ばした。


 あわただしく朝食をとったあと、龍翔は周康を共に藍圭と初華の元へ行き、いま、部屋に残っているのは、明珠と季白と張宇の三人だけだ。


 晟藍国に来てからというもの、ほとんどいつも龍翔の供を務めていた季白が、供の役目を周康に託してわざわざ明珠に話があるなんて……。


 嫌な予感しかしない。


 びくびくと怯えていると、隣に座る張宇に、「大丈夫だよ」と穏やかに声をかけられた。


「龍翔様から、明珠を無体な目にあわさぬように守れと、重々言い含められている。安心するといい」


「張宇さん……っ」

 頼もしい声音に、うる、と目が潤みそうになる。


「その、龍翔様も、私の意志で決断すればよいと言ってくださったんですけれど、あの……。そもそも、何のお話なんでしょうか……?」


 朝食の席では、他の報告事項のやりとりだけで終わってしまい、結局、何のことか聞けずじまいだった。


 こわごわと季白に問いかけると、厳しいまなざしを向けられた。


「いつもながら、あなたには落ち着きというものが足りませんね! 龍翔様の従者なのですから、もっと落ち着きと気品に満ちた態度を心がけなさい! そんなことでは、蚕家の令嬢にはなれませんよ!」


「ひぃぃっ! すみませんっ!」


 反射的に謝り……。最後のひとことに、きょとんと首をかしげる。


「あの……? 蚕家の令嬢って……?」


「話というのは、そのことです」

 頷いた季白が、ひたと明珠を見据える。


「明珠、あなた……。正式に、蚕家の娘になりませんか? いえ、むしろなりなさい。あなたにとっては、願ってもない話でしょう?」


「……え? え? え? えぇぇぇぇっ!?」


「おい季白! 明珠に無理強いはするなと龍翔様がおっしゃっていただろう!?」


 明珠のすっとんきょうな声に、張宇の叱責がかぶさる。


 が、それどころではない。


「わ、わわわわわ私が蚕家の正式な娘ですか……っ!? む、無理ですっ! 術師として半人前以下な私が、宮廷術師の筆頭である蚕家を名乗るなんてそんな……っ!」


 ぶんぶんぶんぶんぶんっ! と千切れんばかりに首を横に振るが、季白のまなざしは揺るがない。


「別に、あなたに術師として働けなどとは言いませんよ。働かせる気もありませんしね。ですが……。弟の順雪に、豊かな暮らしをさせてやりたいでしょう?」


「順雪に……っ!?」


 最愛の弟の名前に、がばりと顔を上げて季白を見返す。


「で、でも、順雪には蚕家の血は……」


「入っていないのは承知の上です。が。龍翔様はあなたと順雪の縁が切れるのは忍びないとおっしゃっておいでです。実は、この話はもう、龍翔様もご存じなのですよ。あなたさえうんと言えば、遼淵様に話を通してよいと。蚕家の後援がつけば、順雪も豊かな暮らしの中で、心おきなく勉学にいそしめることでしょう。今を逃せば、こんな好機はありませんよ? ……順雪に、恵まれた暮らしをさせてやりたいでしょう?」


 季白の言葉に、魅入られたように呟く。


「順雪、に……」


「待てっ! おい季白! その話の持って行き方は卑怯だろう!? 順雪をだしにされたら、明珠が了承しないはずがないだろう!?」


 ふらふらと蜜に誘われるありのように、季白の提案を一も二もなく受け入れようとしていた明珠は、張宇の声にはっと我に返る。


 振り向くと、張宇が真摯なまなざしで明珠を見つめていた。


「急な話で驚いただろう? ゆっくり話を聞いてから決めても、遅くはないんだぞ?」


 穏やかな張宇の声に、わずかに冷静さを取り戻す。


 そうだ。明珠が初めて遼淵と会ったのは何か月も前、まだ蚕家に侍女として勤めていた時だ。


 あの時、遼淵は明珠が麗珠の娘だと認めてくれた。


 遼淵の口調は至極軽いものだったが、実の父に娘だと認めてもらえて、明珠がどれほど嬉しかったことか。きっと遼淵は知らぬだろう。


 そればかりか、乾晶からの帰途に蚕家に寄った時には、綺麗な衣装を用意してくれ、一緒に食事までしてくれて……。


 だが、明珠自身は、遼淵に娘と認めてもらえただけで満足で、正式に蚕家の娘にしてもらおうだなんて、欠片も考えたことがなかった。


 半人前の明珠が蚕家の娘になろうだなんて、おこがましすぎる。


 それに遼淵も、麗珠の娘だとわかった時に、「明珠を正式に娘に」なんて言わなかった。


 だというのに、この数か月の間に、いったいどんな変化があったのだろう。明珠に思い当たることと言えば。


清陣せいじん様に、何かあったんですか……?」


 遼淵の嫡子ちゃくしであり、蚕家の次期当主と見なされていた清陣は、禁呪使いにそそのかされて龍翔を襲った罪で、謹慎きんしんされている。


 その清陣に何かあったため、明珠が必要になったのだろうか。


 明珠の問いかけに、季白と張宇がきょとんと顔を見合わせる。


「清陣?」


「龍翔様を害そうとした大罪人ですね。いえ、今回の件は別に清陣に何かあったためではありません。あなたを遼淵様の正式な娘に、と言ったのは、玲泉様よけのためですよ。名家の娘となれば、玲泉様も無体な真似はしにくいでしょう?」


「な、なるほど……っ」


 季白の言葉に感心して頷く。季白が満足そうに微笑んだ。


「玲泉様よけになりますし、あなたは弟によい暮らしをさせてあげられる。願ってもない話でしょう? もちろん、あなたに蚕家の術師として働け、なんて無理は言いませんよ」


 季白がにこやかに微笑んで、優しげな声音で告げる。こんなにこやかな季白は、滅多に見た記憶がない。


「で、でも……。もし、このお話をお受けしたら、『明順』として龍翔様にお仕えするのはどうなるんですか……?」


 気がかりがあるとしたら、いまだ禁呪に苦しんでいる龍翔のことだ。


 明珠の問いかけに、

「もちろん、このまま仕えてもらいますよ」

 と季白が即答する。


「龍翔様の禁呪の件を政敵に知られるわけにはいきませんからね。禁呪が解けるまで、もしくは別の解呪の手段が見つかるまで、あなたを龍翔様のおそばから離すわけにはいきません。まあ、状況次第では、『明順』ではなく元の『明珠』として仕えてもらう可能性も大いにありますが……」


「よかったぁ……っ! このまま龍翔様にお仕えできるんですね!」


 季白の返事を聞いた途端、ほぅっと大きな安堵の息がこぼれ出る。


「それでしたら、ありがたくお受けいたします! えーと……。何か、しないといけないことなどはあるのでしょうか……?」


「いえ、何もありませんよ。わたしが周康殿に頼んで、《渡風蟲》で文を送るだけですから」


「あのっ、でしたら遼淵様に私が心から感謝していたとお伝えいただけますか!? 順雪のことをどうぞよろしくお願いいたしますと!」


 深々と頭を下げて季白に頼み込むと、隣に座る張宇の吐息が聞こえた。


「……そうだよな……。大事な順雪のことを出されたら、明珠は迷いなく受けるよな……」


「えっ!? 張宇さんはお受けしないほうがいいと考えてらしたんですか!?」


 ため息に驚いて問うと、「いや、そういうわけじゃないんだ」とかぶりを振られた。


「実の父親に、正式に娘だと認められるのはよいことだと思うよ。……明珠だって、叶うならと心の中で願っていただろう?」


 穏やかな声で、心の奥に秘めていた願いを指摘され、こくりと頷く。


「はい……。でも、そんな奇跡なんて、起こらないものと……」


「せっかくのまたとない機会なんだ。明珠さえいいと思うなら、俺は話を受けたらよいと思うよ。……まあその、今後のこともあるだろうし……」


「そうですね! 本当にありがたいお話ですもんね!」


「では、受けるということでよいですね」


 珍しく上機嫌な笑顔を見せる季白に、明珠は、


「はいっ! よろしくお願いいたします」

 と、深々と頭を下げた。


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